関銀屏  父の仇討ちどこ行った



関銀屏(かんぎんぺい)
司州河東郡解県の人(204?~271?)

関羽の娘。「正史」・「演義」にも関羽の娘は存在のみ言及されるが、名前や業績は一切不明。
219年、孫権の息子への嫁入りを持ちかけられるが関羽に「虎の子を犬の子にやれるか」と断られるだけである。

関銀屏は民間伝承で活躍する。
色白の美人で、義叔父の張飛にかわいがられた。関羽は虎牢関の戦いで手に入れた、呂布が所持していた真珠を彼女に贈った。(張飛、または関羽・張飛の二人から贈られたともいう)
長じると彼女の噂は孫権のもとにも届き、息子への嫁入りを持ちかけられるが関羽は「虎の子を犬の子にやれるか」と断った。
孫権はそれを恨みに思い、関羽を攻撃した。関羽は救援要請の使者として関銀屏を都に逃がし、敗死した。

関銀屏は呂布の真珠のおかげで命拾いしたと噂されたが、心痛からやせ細った。
張飛に衣装を贈られても「綺麗な装飾より父の仇を討ちたい」と喜ばず、趙雲に武芸を習った。
やがて南中で反乱が起きると関銀屏も討伐軍に加えられた。諸葛亮は南中出身の李恢(りかい)を副官に取り立て、その息子の李蔚(りい 正史での名は李遺)もまた有能であると聞くと、関銀屏とめあわせた。

関銀屏は夫や李恢とともに南中征伐で活躍し、戦後は当地に留まり三人で仲睦まじく暮らした。
民にも農耕や養蚕、学問から武芸まで幅広く教育したため、関三小姐(かんさんしょうしゃ)と呼ばれ慕われた。
夫妻は毎朝、金蓮山に登っては北に向かい亡き関羽らを想いながら化粧をしたといい、没するとともに金蓮山に葬られた。
呂布の真珠も埋葬され、そのため晴れた日には山頂が五色に輝いたという。
なお架空の人物ながら雲南省には夫妻の墓が現存している。

父の仇討ちに燃えていたはずが運命の人とめぐり会ったら綺麗さっぱり忘れたり、夫妻で山に登り父の霊に見せつけるように化粧をするという謎のプレイ、女の幸せをつかめば勝利と言わんばかりの晩年と、ツッコミどころが山ほどあるが深く考えるべきではないのだろう。