閻圃  ああ言えば閻圃言う



閻圃(えんほ)字は不明
益州巴西郡安漢県の人(?~?)

張魯(ちょうろ)の臣。

住民が地中から玉印を見つけ、張魯に献上すると、群臣は王位につくよう勧めたが、功曹の閻圃は「漢中は豊かで地の利に優れ、天子を助ければ必ず富貴を得られます。現状でも独断で思うようにできる、王に等しい地位にあるのに、わざわざ王位につき、禍根を招く必要はありません」と反対し、張魯もそれに従った。

215年、曹操の大軍に攻められ陽平関を落とされると、張魯は降伏しようとしたが、閻圃が「追い詰められて降伏すれば軽く見られます。抵抗の構えを見せた後に降れば、評価は上がるでしょう」と進言した。
配下は宝物を略奪されないよう焼き払おうとしたが、張魯は「私はもともと国家(朝廷)に帰順したいと願っていた。今もただ矛先を避けるだけで、戦意があって逃亡するわけではない。宝物は国家のものである」と言い、蔵を封印して逃亡した。
経緯を聞いた曹操は感心し、張魯の降伏を受け入れると、厚遇した。
張魯の5人の子と閻圃も列侯された。(『張魯伝』)

「典略」に曰く、張魯は劉備に降った馬超の妾の董氏(とうし)と、子の馬秋(ばしゅう)を預かっていた。
曹操は董氏を閻圃に与え、馬秋を張魯に与えた。張魯は馬秋を殺した。(『馬超伝』)

黄初年間(220~226)、閻圃の爵位と領地は加増され、朝議の席で礼遇された。
10年ほど後に病没した。

孫の閻纘(えんさん)は晋の西戎司馬に上った。

後世の習鑿歯は「曹操は閻圃が自分に仕える前の、張魯を諌めて王位につけなかったことを、さかのぼって評価し列侯した。武勲ばかり称えていれば、人々は乱世を利益と考え、戦争は無くならない。道義を重んじ、悪を懲らしめ善を勧める賞罰の根本原理を心得ている」と絶賛した。(『張魯伝』)

「演義」でも劉璋(りゅうしょう)の援軍要請に反対したり、曹操に対抗するため龐徳を推挙したりと的確な進言をする。史実と同じく降伏後に列侯された。
SLG「三國志」でも軍師格で、脳筋揃いの張魯軍では貴重な存在である。