袁遺  世に勉強家は二人きり



袁遺(えんい)字は伯業(はくぎょう)
豫州汝南郡汝陽県の人?(??~193?)

後漢の臣。
袁紹の従兄。

「何夔伝」には袁術の兄と記されるが、族兄か実兄かは不明。
また何夔(かき)の叔母が袁遺の母である。(『何夔伝』)

長安県令を務めた。

張超(ちょうちょう)は朱儁(しゅしゅん)に推挙し「美徳と器量を持ち、誠実公明さは天与の物です。博覧強記で詩を作り、事物を識別してその名を知ることにかけては、匹敵する者はいません」と称揚した。
曹操も「年を取っても学問に励むのは私と袁遺だけだ」と言った。
曹丕は父のその言葉を「典論」に載せ、自らも学問に励んだ。

190年、山陽太守の時、袁紹・袁術らとともに董卓討伐のため挙兵した。(『武帝紀』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 献帝紀』)、揚州刺史の陳温(ちんおん)が没すると、袁紹により後任の刺史となったが、袁術に打ち破られた。
豫州沛国まで逃亡したが、兵士に暗殺された。(『武帝紀』・『袁術伝』)

「演義」では董卓討伐軍に参加するだけで、その後は描かれない。