袁術  人生やりたい放題



袁術(えんじゅつ)字は公路(こうろ)
豫州汝南郡汝陽県の人(?~199)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

後漢末の群雄。
袁逢(えんほう)の子。袁紹の従弟。

父は司空を務めた名家の出で、俠気があることで知られた。
孝廉に推挙され、郎中に任命され、中央と地方の職を歴任し、折衝校尉・虎賁中郎将となった。(『袁術伝』)

189年、霊帝が没すると、宦官と対立する大将軍の何進(かしん)は虎賁中郎将の袁術に200人の兵を選抜させ、宮中の門番の宦官と交代させようとしたが、先手を取られ何進は暗殺された。袁紹・袁術は宮中に突入し宦官を皆殺しにした。(『袁紹伝』)

董卓が実権を握ると後将軍に任じられたが、迫害を恐れて荊州南陽郡へ逃亡した。
ちょうど董卓討伐のため北上した孫堅が南陽太守の張咨(ちょうし)を殺したところで、後任の座に収まった。
南陽郡の人口は数百万おり豊かだったが、袁術が欲望の赴くままに贅沢三昧をし、税を際限なく取り立てたため人々は苦しんだ。(『袁術伝』)

袁術は上表し孫堅を破虜将軍・豫州刺史にし後ろ盾となった。
離間策により孫堅を疑い兵糧を送らなくなると、孫堅は百里の道を駆けて目通りし、地面に図を描いて説明しつつ道理を説いた。袁術は返す言葉もなくすぐさま兵糧を手配させた。(『孫堅伝』)

袁術は(董卓のもとにいた)曹操が死んだと知らせ、配下らは浮足立ったが、側室の卞氏(べんし)が「まだ死んだと決まったわけではありません。あわてて逃げ出し、無事だったら合わせる顔がありません。もし本当だったらその時に一緒に死ねばいいでしょう」と引き止めた。帰還した曹操はその判断を愛でた。(『武宣卞皇后伝』)

190年、袁紹らとともに董卓討伐軍を挙兵した。だが董卓軍を恐れ誰も先陣を切ろうとはせず、解散した。(『武帝紀』)

献帝は幽州刺史の劉虞(りゅうぐ)に助けを求めようとし、劉虞の子の劉和(りゅうか)を脱走させた。
劉和は南陽郡を通り、袁術は援助すると見せかけて利用しようと企み、劉和を引き止めると、父に兵を送るよう手紙を書かせた。公孫瓚(こうそんさん)はそれを見抜いて派兵をやめるよう言ったが、劉虞は聞かなかった。公孫瓚は袁術に恨まれるのを恐れ、従弟の公孫越(こうそんえつ)に騎兵を預けて随行させ、隙を見て劉虞の兵を奪うよう命じた。それが露見し劉虞と公孫瓚は険悪となった。
袁紹は周昴(しゅうこう)に命じて袁術の陣地を攻撃し、袁術は公孫越に反撃させたが戦死した。公孫瓚は袁紹の責任だと激怒し侵攻した。(※界橋の戦い)(『公孫瓚伝』)

袁術は華歆(かきん)を登用しようとしたが、董卓を討伐するよう進言され、断ると見切りをつけられ辞去された。(『華歆伝』)

韓曁(かんき)も招聘を断って山へ逃げた。(『韓曁伝』)

192年、董卓を暗殺した呂布は残党の李傕(りかく)らに撃破された。袁術のために復讐してやったのだから歓迎されるだろうと考えていたが、拒絶された。(『呂布伝』)

袁紹と荊州牧の劉表(りゅうひょう)と険悪となり、公孫瓚と手を結ぶと、袁紹は劉表と同盟し対抗した。(『武帝紀』)
192年、孫堅は劉表と戦い討ち死にした。(『孫堅伝』)

193年、劉表に糧道を断たれため、兗州陳留郡へ侵攻したが曹操・袁紹に撃破され、追撃を受け揚州九江郡まで逃げ、揚州刺史の陳温(ちんおん)を殺して地位を奪った。(『武帝紀』・『袁術伝』)

この戦いで曹仁が大活躍した。(『曹仁伝』)

孫堅の甥の孫賁(そんふん)は袁術が揚州に移ると残党を率いて配下となり、九江太守の周昴を撃破した功績により、袁術は上表し豫州刺史に任じた。(『孫賁伝』)

長安の都を支配する李傕は袁術を味方につけようとし、左将軍に任じ、陽翟侯に封じ節を与えようとした。だが袁術は使者の馬日磾(ばじつてい)を捕らえ節を奪った。
また沛国相の陳珪(ちんけい)とは若い頃から交友があり、援助を求めたが断られた。次男を人質に取り脅したが陳珪は屈しなかった。(『袁術伝』)

袁渙(えんかん)は戦乱を避けて揚州へ移住し、袁術に仕えた。諮問を受けるたびに正論を吐き、袁術は逆らえなかったが、敬意を表し礼を尽くした。呂布を攻撃した際に捕虜となり、仕官させられた。(『袁渙伝』)

張範(ちょうはん)も揚州へ移住し、袁術は充分な礼を取って招聘したが、病気で断られると無理に服従させなかった。
代わって弟の張承(ちょうしょう)が出向いたが、袁術の質問に正論をもって反駁したため不愉快にさせた。(『張範伝』)

鄭渾(ていこん)も淮南へ避難し袁術に手厚く待遇されたが、必ず失敗すると予見し、旧友の華歆のもとへ移った。(『鄭渾伝』)

陳矯(ちんきょう)は袁術・孫策に招かれたがどちらも断った。(『陳矯伝』)

袁術は諸葛玄(しょかつげん)を豫章太守に任命した。父を亡くした諸葛亮は従父の諸葛玄に従っていた。(『諸葛亮伝』)

許靖(きょせい)は曹操に手紙を送り「会稽郡にいた頃、招いていただいたが、袁術が勅命を無視して善人を害し、反逆者どもを扇動して全ての道を塞いでしまい、応じられませんでした」と述べた。(『許靖伝』)

194年、孫堅の子の孫策が袁術に身を寄せ、袁術は奇特なことと喜び、孫堅の旧臣を返してやった。
配下の張勲(ちょうくん)・橋蕤(きょうずい)は心から孫策を尊敬し、袁術も「孫策のような息子がいれば死んでも思い残すことが無いのだが」と常々嘆息した。
ある時、孫策の配下が罪を犯して袁術の軍営へ逃げ込み、孫策はそれを追わせて殺した。勝手に軍営に入ったことを詫びると、袁術は「命令違反は憎むべきで謝罪することなどない」と言い、孫策はますます畏敬された。
揚州刺史の劉繇(りゅうよう)は揚州の役所のある寿春を袁術に占拠されていたため、曲阿に駐屯し勢力を強めていた。
袁術は孫賁に攻撃させていたが苦戦し、孫策に救援を命じると、あっという間に撃破し江東を制圧した。(『孫策伝』)

孫堅の旧臣の朱治(しゅち)は孫策の側近く仕え、袁術の統治が徳による教化から外れていると見て取り、孫策に江東に割拠するよう勧めた。(『朱治伝』)

劉備は臨終の床についた陶謙(とうけん)に徐州刺史を譲られた。劉備の配下にいた陳羣(ちんぐん)は「袁術は強力で必ず戦争となり、呂布に背後を襲われれば徐州も失う」と反対した。劉備は聞き入れず刺史となったが陳羣の予見した通りになり、後悔した。(『陳羣伝』)

劉備ははじめ刺史に袁術を推薦したが、陳登(ちんとう)が「袁術は驕慢で混乱を治められない」と、孔融(こうゆう)が「袁術は国を憂えて家を忘れる男だろうか。墓の中の骸骨同然で意に介す必要もない」と説得し、引き受けさせた。(『先主伝』)

呂布は劉備を頼ったが、劉備が袁術を攻撃する隙に蜂起して城を奪い、主従が入れ替わった。
袁術が紀霊(きれい)に劉備を攻撃させると、呂布が救援した。呂布は戟を地面に突き立て「今から戟の小枝(脇に付けた刃)を射るから、命中したら解散し、外したら戦いを続けろ」と言い、命中させた。諸将は呂布を讃え、宴会に明け暮れた後に解散した。(『呂布伝』)

袁術は孫策を九江太守に任じると約束していたが、それを反故にし陳紀(ちんき)を任命した。徐州を攻めるため廬江太守の陸康(りくこう)に兵糧を供出するよう求め断られると、「この前は間違って陳紀を任命してしまい、私も残念に思っていた。廬江を落としたら君の物だ」とたきつけ陥落させたが、またも反故にし劉勲(りゅうくん)を太守にし、孫策を失望させた。(『孫策伝』)

かつて陸康の子の陸績(りくせき)が6歳の時、袁術に目通りした際に、出されたミカンを3つ懐にしのばせたが、お辞儀をした拍子に転げ落ちた。袁術が「陸郎(陸家の若君)は招かれた席でミカンを隠すのか」とからかうと、陸績はひざまずき「母のために持って帰ろうと思ったのです」と詫びた。袁術は並の子ではないと感銘を受けた。(『陸績伝』)

195年、献帝が長安を脱出したものの李傕らに追撃され敗れると、漢王朝は衰退したと言い、帝位につこうとした。この時は閻象(えんしょう)に諌められ取りやめたが、結局197年に皇帝を僭称した。(※仲を建国した)
荒淫奢侈はますます酷くなり、酒池肉林を楽しんだが、配下や民は窮乏し、支配域からは食糧が無くなり、共食いをするほどだった。(『袁術伝』)

孫策は僭称を非難し絶縁した。(『孫策伝』)

197年、袁術は息子の嫁に呂布の娘を迎えようとしたが、陳珪は袁術・呂布が連携すれば脅威になると考え、やめるよう説得すると呂布も先に袁術に拒絶された恨みを思い出し、使者を捕らえた。
袁術は激怒し攻撃したが、陳珪が配下の韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせたため大敗した。(『呂布伝』)

陳国に侵攻したが曹操の反撃を受け、軍を捨てて逃亡し、大将軍の橋蕤ら4将を討たれた。(『武帝紀』)

縁戚の何夔(かき)を無理やり配下とし、陳国蘄陽県を攻めると、陳国出身の何夔を脅して降伏勧告させようとしたが、逃亡された。
袁術は縁戚にあたるため恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。(『何夔伝』)

198年、呂布は袁術と同盟し曹操と戦ったが、敗死した。(『呂布伝』)

同198年、周瑜を招いたが、失敗を予見した周瑜は居巣県長への赴任を願い出て、孫策のもとへ逃げた。(『周瑜伝』)

魯粛も東城県長に任命されたが、袁術は支離滅裂で大事をなせないと考え、一族や荒ぶる若者を引き連れて居巣へ移り、周瑜とともに孫策を頼った。(『魯粛伝』)

199年、連敗により勢力を失い、山賊になっていた旧臣の雷薄(らいはく)・陳蘭(ちんらん)を頼ったが追い返された。
袁紹に帝位を譲り助けてもらおうとしたが、劉備・曹操に道を阻まれ、道中で病没した。(『武帝紀』・『袁術伝』)

妻子は旧臣の劉勲を頼ったが、劉勲も孫策に撃破され、身柄を奪われた。
娘の袁夫人(えんふじん)は孫権の側室となり、息子の袁燿は取り立てられ、孫娘は孫権の子に嫁いだ。(『袁術伝』)

陳寿は「奢侈多淫で欲望のままに振る舞い、栄華を保てなかったのは自業自得である」と評した。
裴松之は「袁術は毛筋ほどの功績、糸くずほどの善行も無いのに、勢力をもって荒れ狂い、帝位を僭称した。正義の士が切歯扼腕し、生者も死者も憎悪する人間だ。たとえ彼が慎み深く倹約に努めたとしても、日を置かず滅亡しただろう。陳寿の評はその大悪を表現するのに不充分である」と批判した。

「演義」でも同様に無能な暴君として描かれるが、暴君ぶりではむしろ史実の方が酷く見える。