袁渙  袁術と呂布を説き伏せた正論家



袁渙(えんかん)字は曜卿(ようきょう)
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。

父の袁滂(えんぼう)は司徒を務め、当時の貴族の子弟は法を無視する者が多かったが、袁渙は清潔で落ち着きがあり、必ず礼に従い行動した。

「漢紀」に曰く。
袁渙が「後漢王室は衰微し、動乱は目前にある。もしそうなったらどこへ逃げればよいのか。天に道徳を存続させる意志があるならば、人は道義を頼って生きられる。強固に意志を保ち礼を失わなければ無事でいられるだろうか」と嘆息すると、従弟の袁徽(えんき)は「易」を引用し「君子は変化の兆しを察知し、動乱を避けるため天道の中に身を潜ませます。私は遠くへ避難するつもりです」と言った。
袁徽は戦乱を避けて交州に避難し、司徒に招聘されたが固辞した。

陳郡の功曹に任じられると、彼を恐れ汚職官吏はみな辞任した。
公府に招かれ優秀さで推挙され侍御史に昇進した。沛国譙の県令に任じられたが就任しなかった。
豫州刺史の劉備に茂才に推挙され、戦乱を避けて揚州へ移住し、袁術に仕えた。諮問を受けるたびに正論を吐き、袁術は逆らえなかったが、敬意を表し礼を尽くした。呂布を攻撃した際に捕虜となり、仕官させられた。
呂布が劉備と険悪になり、袁渙に劉備を罵る書簡を書かせようとしたが、何度命じられても断った。呂布は激怒し武器をちらつかせ「書けば生、書かねば死だ」と迫ったが、袁渙は平然と笑いながら「徳だけが人に恥辱を感じさせると聞いています。劉備が(徳のある)君子ならば罵られても恥と思わず、(徳のない)小人なら言い返すでしょう。そうすれば恥を与えられるのはあなたです。それに私は以前に劉備に仕え、今はあなたに仕えています。私が別の人に仕えたら、あなたを罵ってもよろしいのですね」と言った。呂布は恥を知り取りやめた。

199年、呂布を討った曹操に仕えた。
「袁氏世紀」に曰く、陳羣(ちんぐん)も呂布配下におり、曹操に平伏した。袁渙だけは対等の挨拶をし、敗者としては振る舞わなかった。曹操は感心し、謹厳で遠慮深い態度で接した。
曹操が呂布から得た戦利品を分け与えると、人々は車いっぱいに詰め込んだが、袁渙は書籍を数百冊と兵糧だけを得た。兵糧も出撃を命じられた時の蓄えだと言い、それを聞いた人々は恥じ入り、曹操はいよいよ彼を尊重した。

「武力よりも徳をもって統治すべきです。あなたはそれを熟知しているから、民に教え諭すべきです」と進言し、曹操はそれを受け入れ、沛国の南部都尉に任じた。
当時、屯田を嫌がり逃亡する民が多かったため、無理強いをしないよう進言し、梁国相に昇進した。
教化訓戒を第一とし、思いやりのある統治に努め、外は温和だが内には決断力があった。病を得て官を辞すと民は彼を思慕した。

「魏書」に曰く。
穀熟県長の呂岐(りょき)は友人を師友祭酒に任じたが、応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。
主簿の孫徽(そんき)は「罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。任命を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。

朝廷に上り諫議大夫・丞相軍祭酒となった。下賜された物は貯えず(全て職務のために)消費した。足りない物を補い、特に身を引き締めたわけではなかったが、人々は清潔さに感服した。(『袁渙伝』)

210年頃、王脩(おうしゅう)が御恩に報いられず恐縮だと上奏すると、曹操は「私の君への理解は目と耳だけではなく心底からの物だ。初めて司金中郎将を設置した時、適任者は他にないと考えた。私は何度も君をもっと高位に据えようとしたが、そのたびに袁渙らに反対された。君を優遇する気がないという誤解をしないでくれ」と言い、魏郡太守に昇進させた。(『王脩伝』)

216年、曹操へ魏王即位を勧める書状に祭酒として連名した。(『武帝紀』)

魏が建国されると郎中令となり御史大夫の事務を扱った。曹操に、より教化を進ませるよう進言し、喜ばれた。
劉備が死んだという報告(※誤報)が届くと、臣下はみな祝ったが、袁渙はかつて茂才に推挙された恩から、ただ一人喜ばなかった。(『袁渙伝』)

ある問題について激論が交わされ、荀閎(じゅんこう)は鍾繇(しょうよう)・王朗(おうろう)・袁渙の意見にそれぞれ異を唱えた。
曹丕は鍾繇に手紙を送り「袁渙と王朗はまるで春秋時代の国士のように、唇と歯のごとく互いを助け合っている。荀閎は強く荒々しい精鋭の軍隊のようだ。君にとっては恐るべき敵で、君の仲間には頭痛の種だろう」と述べた。(『荀彧伝』)

蜀の許靖(きょせい)は袁渙・華歆(かきん)・王朗と親交があった。(『許靖伝』)

在官から数年で没した。曹操は涙を流して悲しみ、遺族へ親愛の情として(法定の)倍の米を支給した。(『袁渙伝』)

220年、曹丕はすでに没していた袁渙らの功績を改めて採り上げ、遺児を郎中に登用させた。(『文帝紀』)

曹丕は袁渙が呂布の脅迫を聞かなかった逸話に感心し、従弟の袁敏(えんびん)に人となりを尋ねた。
「袁渙は柔和に見えますが、大義に関わる状況に直面し、危難に臨んだ時は、孟賁や夏育(※古代の勇者)でさえも超えられないほどです」と答えた。(『袁渙伝』)

「傅子」に曰く。
「袁渙は徳を積み重ね行いは控え目である。華歆は徳を積み重ね道義にかなっている。彼らの英知に到達することはできても、清潔さに到達することはできない。上には忠節をもって仕え、下には仁愛をもって救う。晏嬰・行父(春秋時代の名宰相)でさえ彼ら以上だろうか」(『華歆伝』)

従弟の袁覇(えんは)の子の袁亮(えんりょう)と、同郷の何夔(かき)の子の何曾(かそう)は、袁渙と並ぶ名声があり、親友だった。

4人の子があり、長子の袁侃(えんかん)も清潔で父の面影があり、重職を歴任した。
子孫は名声と地位を保ったまま宋代まで続いている。(『袁渙伝』)

「晋陽秋」に曰く、司馬懿は荀顗(じゅんぎ)・袁侃に会い「荀彧・袁渙の子だけはある」と讃えた。(『荀彧伝』)

陳寿は同伝に記した袁渙・邴原(へいげん)・張範(ちょうはん)を「清潔な生き方を実践し、出処進退は道義に基づいていた。貢禹・龔勝・龔舎(※春秋・前漢の高潔な名士)の仲間である」と称えた。

「演義」には登場しない。