袁煕  ネトラレお兄ちゃん



袁煕(えんき)字は顕奕(けんえき)または顕雍(けんよう)
豫州汝南郡汝陽県の人(??~207)

袁紹の次男。
袁譚(えんたん)の弟、袁尚(えんしょう)の兄。
甄姫の元夫。

字は「魏書 袁紹伝」では顕奕、「後漢書 袁紹伝」では顕雍と記される。
「ちくま版」では顕突(けんとつ)とさらに誤記され、よく批判される。

袁紹は北方を制圧すると、長男の袁譚を(事実上、廃嫡し)青州刺史に任じた。沮授(そじゅ)は後継者争いを招く災いの種になると反対したが、袁紹は「息子たちにそれぞれ一州を任せたいのだ」と言い、次男の袁煕を幽州刺史、甥の高幹(こうかん)を并州刺史に任じた。(『袁紹伝』)

建安年間(196~220)に甄姫は袁煕に嫁いだ。袁煕が幽州刺史に赴任したため、甄姫は鄴に残り姑の世話をした。(『文昭甄皇后伝』)

200年、官渡の戦いで袁紹は大敗し、202年に後継者を指名しないまま没したため、袁譚・袁煕は骨肉の争いを始めた。

205年に袁譚が曹操に討たれ、敗れた袁尚は兄の袁煕のもとへ身を寄せた。
だが配下の焦触(しょうしょく)・張南(ちょうなん)に裏切られ、遼西烏丸のもとへ逃げた。(『袁紹伝』)

鄴が陥落すると妻の甄姫は捕虜となり、曹丕の妻に迎えられた。(『文昭甄皇后伝』)

207年、曹操は追撃し、敗れた袁尚・袁煕は遼東太守の公孫康(こうそんこう)を頼った。
公孫康は歓迎するふりで油断させ、彼らを処刑し、首を曹操へ送った。

「典略」に曰く。
袁尚は生まれつき武勇に優れ、公孫康を殺して軍勢を奪おうと企てていた。
公孫康も袁尚・袁煕を殺さなければ朝廷に申し訳がないと考え、二人を油断させて伏兵に捕らえさせた。凍った地面に座らされた袁尚が「むしろ(敷物)が欲しい」と言うと、袁煕は「これから首が万里の旅に出掛けるのにむしろがいるものか」と呆れた。揃って斬首された。(『袁紹伝』)

遼東への追撃を進言する者もいたが、曹操は「公孫康に袁尚・袁煕の首を送らせる。兵をわずらわせはしない」と言い、的中させた。なぜ予見できたのか聞かれ「公孫康はかねてから袁尚を恐れていた。私が攻めれば結託して抵抗するが、緩めれば自分で(袁尚に)始末をつける。情勢を見ればわかる」と答えた。(『武帝紀』)

「明帝紀」によると曹叡は239年に36歳で没した。生年は204年となるが、当時まだ母の甄姫は袁煕の妻であり矛盾する。そのため曹叡の実父は袁煕であり、だから曹丕に疎まれたのだとする説がある。
裴松之も年齢の矛盾に気づき指摘しているが、その説は唱えておらず、単なる年齢の誤記だろうと捉えているようだ。(『明帝紀』)