閻行  葛藤する剣豪

 

閻行(えんこう)字は彦明(げんめい)
涼州金城郡の人(?~?)

韓遂(かんすい)、後に魏の臣。
後に閻艶(えんえん)と改名した。

「魏略」に曰く。
年少の頃からますらおの評判を取り、韓遂に仕えた。
建安年間(196~220)のはじめに馬騰(ばとう)と争った時、同じく勇名を馳せた馬超と戦い、突き刺して矛が折れ、折れた矛で首筋を殴りつけ、ほとんど殺すところまで追い込んだ。

209年、曹操のもとへ使者として赴くと、手厚くもてなされ犍為太守に任じられた。閻行は父を宮中警護の任に就かせて欲しいと願い出た。
帰って韓遂へ、「謀叛の意志は無いとわかっている。早く都へ上り朝廷を助けよ」との曹操の言葉を伝え、「私もあなたのために戦い30余年が経ちました。勢力は衰え、早く屈するべきです。(人質として)父を都へ行かせます。あなたも息子を(人質に)派遣するといいでしょう」と勧めた。
韓遂は「数年は様子を見よう」と即断しなかったが、結局は閻行の父母とともに息子を人質に出した。

ところが馬超ら関中の諸将が反乱し、「私は(都にいる)父を捨て、あなたを父と思います。あなたも子を捨て私を息子と思ってください」と言い、韓遂を盟主に祭り上げようとした。閻行は反対したが、韓遂は「相談もしないのに諸将は一致団結した。天のさだめのようだ」と喜び挙兵した。
戦いのさなかに曹操と韓遂が会談した時、随行していた閻行へ「孝子とならなければいかんぞ」と曹操は言った。
韓遂は敗れ、閻行は故郷の金城郡へ逃がした。曹操は彼が降伏を勧めたのを知っており、都にいた韓遂の子と孫だけを処刑した。そして閻行へ手紙を送り「韓遂のやることを見ていると馬鹿らしくなる。私は何度も説得したがこれ以上は辛抱できない。君の父はもちろん無事だが、牢獄は親を養う場所ではないし、他人の親を長い間は養えない」と脅した。
韓遂は閻行の父が無事だと聞くと、末娘を無理に閻行に嫁がせ曹操を疑わせようとした。策は当たり曹操は疑念を持ったが、閻行は統治していた西平郡で挙兵し、韓遂を攻撃した。
敗れると曹操に降伏し、列侯された。

「典略」に曰く。
婿の閻行に襲撃された韓遂は「苦難に付け込む災いが縁戚から起こるとは」と嘆いた。腹心の成公英(せいこうえい)は羌族を頼るよう勧め、数万の兵を得た韓遂は閻行を攻撃したが、急死したため成公英も曹操に降った。(『張既伝』)