閻温  魏の鳥居強右衛門

 

閻温(えんおん)字は伯倹(はくけん)
涼州天水郡西城県の人(?~213)

魏の臣。

涼州の別駕として、上邽県令を代行した。
211年、曹操に敗れた馬超が上邽県に逃げ込むと、郡民の任養(じんよう)らがこぞって歓迎し、閻温はそれを止められず州へ逃げ帰った。

213年、馬超は州庁のある冀城を包囲した。閻温は夜間に水中を潜って脱出し、夏侯淵に救援を求めた。翌日、馬超軍は痕跡を見つけて追跡し、県境で閻温を捕らえた。
馬超は「勝敗ははっきりしている。城中に向かって救援は来ないと言えば助けるが、断れば処刑する」と迫った。
閻温は承諾したふりをし、城中へ「大軍が3日以内に来るからがんばれ」と叫んだ。馬超は激怒し「お前は命が惜しくないのか」と言ったが、閻温は何も答えなかった。
馬超は包囲戦が長く続いていたため、なんとか閻温から情報を得ようとし「城中に私に同調する者はいないか」と聞いたが、それにも答えなかった。閻温は拷問に掛けられたが「主君に仕えれば裏切らないものだ。それなのにあなたは不義の言葉を吐かせようとする。私はいいかげんに命を貪りはしない」と言い、とうとう殺された。(『閻温伝』)

しかし救援は現れず(※そもそも閻温は夏侯淵のもとへたどり着いてもいない)そのまま冀城は開城降伏した。
当時、城中にいた楊阜(ようふ)も「閻温が殺され、刺史も太守も色を失い降伏を考えた」と述懐しており、むしろ閻温の死が降伏の引き金になったふしすらある。(『楊阜伝』)

陳寿は「城に向かって大声で呼びかけ、(古代に同様の事績を残す)解楊・路中大夫の激烈さと同じだ」と評した。

「演義」には登場しない。

また254年に合肥新城が包囲された際に鄭像(ていぞう)が、日本でも長篠の戦いで鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が全く同じ事績を残している。