袁紹  名族



袁紹(えんしょう)字は本初(ほんしょ)
豫州汝南郡汝陽県の人(?~202)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

後漢末の群雄。
袁術の従兄か異母兄。

4代にわたって三公を輩出した名門に生まれる。堂々として威厳ある風貌だが、身分にこだわらず下手に出たため、曹操ら大勢に慕われた。
大将軍の何進(かしん)の掾となり、推挙され侍御史となった。やがて中軍校尉、司隷校尉に上った。

189年、霊帝が没すると、それを機に何進は袁紹とともに宦官の一掃を図った。地方から董卓ら有力諸侯を集め、武力をたてに脅迫しようとすると、宦官は陳謝し許しを請うた。袁紹はそのまま始末すべきだと言ったが何進は承知せず、宮廷の武官を手勢で固めようとしたが、先手を打たれ宦官に暗殺された。
袁紹は報復のため宮中へ突入し、宦官を皆殺しにした。中には品行正しい者もいたが区別なく2千人余りを殺した。

混乱に乗じて実権を握った董卓が少帝を廃したいと相談すると、袁紹は叔父の袁隗(えんかい)と相談すると言い、その足で冀州へ逃亡した。
人事権を持つ何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と通じていたため、処罰せず渤海太守・邟郷侯を与え懐柔すべきだと進言した。

190年、袁紹は渤海で挙兵し、車騎将軍を自称し、諸侯を集め董卓討伐軍を結成した。(『袁紹伝』)

張楊(ちょうよう)もそれに合流し、於夫羅(おふら)とともに駐屯したが、於夫羅は裏切り張楊を連れ去った。袁紹は麴義(きくぎ)に追撃させて打ち破ったが、於夫羅は勢力を盛り返し、張楊は河内太守に任じられようやく解放された。(『張楊伝』)

191年、冀州牧の韓馥(かんふく)とともに劉虞(りゅうぐ)を皇帝に立てようとしたが、拒絶された。(『袁紹伝』)

董卓軍を恐れ誰も先陣を切ろうとはせず、毎日酒盛りするだけで、曹操の献策も無視し、結局解散した。
黒山賊が東郡へ侵攻したが曹操に撃退された。袁紹は上奏して曹操を東郡太守に任じた。(『武帝紀』)

北平太守の公孫瓚(こうそんさん)は董卓討伐を名目に冀州を奪おうとした。冀州牧の韓馥は臆病で、うろたえているのに付け込み、袁紹は冀州牧の座を自分に譲らせた。(『袁紹伝』)

荀彧は韓馥の招きに応じたが、到着すると袁紹に冀州牧を奪われていた。弟の荀諶(じゅんしん)や同郷の辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)らはすでに重臣となり、荀彧も厚遇されたが、袁紹は大事をなせる人物ではないと判断して辞去し、曹操に仕えた。(『荀彧伝』)

郭嘉もはじめ袁紹に会ったが「袁紹は周公旦の真似をし士人にへりくだるが人物を使う機微を知らない。色々やろうとするがおろそかで、策略を好むが決断力がない。天下の大難を救い、王者の事業をなすことはできない」と言い立ち去った。(『郭嘉伝』)

朱霊(しゅれい)ははじめ袁紹の配下だったが、曹操の援軍に派遣されると、その人物に惚れ込み曹操へ鞍替えした。(『徐晃伝』)

和洽(かこう)は袁紹に招かれたが「冀州は四方から攻撃にさらされ、民も強く、袁紹は力をつけてきたが安泰とまでは言えない。荊州の劉表(りゅうひょう)は取り立てて言うほどの志はないが、土地は険阻で民は弱い」と見立て荊州へ移住した。(『和洽伝』)

沮授(そじゅ)は青州・幽州・并州を制圧し北方に割拠するよう勧め、袁紹は我が意を得たりと喜び、董卓が送った降伏勧告の使者を殺した。
叔父の袁隗ら都にいた袁氏一族はことごとく処刑され、各地の有力者はその復讐を旗印に挙兵した。(『袁紹伝』)

はじめ袁紹・公孫瓚・劉岱(りゅうたい)は協力し、袁紹は妻子を劉岱のもとに預けていた。
袁紹と公孫瓚が敵対すると、公孫瓚は劉岱へ袁紹の妻子を引き渡すよう脅した。判断に迷った劉岱が程昱(ていいく)に相談すると「隣国の袁紹ではなく遠国の公孫瓚と結ぶのは愚かで、そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではない」と答えた。
はたして公孫瓚は間もなく袁紹に敗れた。(『程昱伝』)

袁術は袁紹と荊州牧の劉表と険悪となり、公孫瓚と手を結ぶと、袁紹は劉表と同盟し対抗した。(『武帝紀』)

張超(ちょうちょう)は劉虞を皇帝に擁立するため、臧洪(ぞうこう)を使者に送ったが、袁紹と公孫瓚が戦っており道を阻まれた。袁紹は臧洪と会うと高く評価し、青州刺史、後に東郡太守に任じた。(『臧洪伝』)

界橋の戦いに際し、鉅鹿郡が公孫瓚に寝返ろうとしたため、袁紹は太守を董昭(とうしょう)に交代させた。董昭は寝返りを企む者に同調して内情を探り、首謀者の孫伉(そんこう)らを処刑し鎮圧した。
袁紹は喜び、同じく治安が乱れていた魏郡太守に転任させ、董昭はそこでもすぐさま賊を討伐した。
しかし弟の董訪(とうほう)が袁紹と敵対する張邈(ちょうばく)に仕えていたため、讒言により処罰されかかり逃亡した。
張楊に保護され、「袁紹と曹操は協力していますが、いずれ破綻します。曹操は今は袁紹よりも弱いとはいえ天下の英雄で、手を握るべきです」と進言し、それを契機に董昭はやがて曹操に仕えた。(『董昭伝』)

献帝は劉虞に助けを求めようとし、劉虞の子の劉和(りゅうか)を脱走させた。
劉和は袁術に引き止められて利用され、脱出後は袁紹に引き止められた。(『公孫瓚伝』)

192年、董卓を暗殺した呂布は残党の李傕(りかく)らに都を追われ、袁術にも拒絶され、袁紹を頼った。黒山賊を撃破したが、兵の増強を要請したり、配下が略奪を働いたため、袁紹に憎まれた。
呂布もそれを察して暇乞いをし、報復を恐れた袁紹は刺客を送ったが、呂布を恐れて誰も手出しできなかった。
呂布はまず張邈を頼った。袁紹・曹操・張邈は友人だったが、董卓討伐の際に盟主となり増長した袁紹は張邈に責められたのを怒り、曹操に命じて殺させようとしたが、曹操にも内輪揉めしている場合ではないと非難されたことがあった。
だが張邈は袁紹に恨まれた呂布を助ければ、曹操を怒らせるのではないかと疑心暗鬼を起こし、呂布とともに曹操を攻撃した。(『呂布伝』)

193年、劉表に糧道を断たれため、袁術は兗州陳留郡へ侵攻したが曹操・袁紹に撃破され、追撃を受け揚州九江郡まで逃げ、揚州刺史の陳温(ちんおん)を殺して地位を奪った。(『武帝紀』・『袁術伝』)

194年、袁紹は曹操に和議を申し入れた。曹操は呂布に兗州を奪われ、兵糧も底をついていたため受けようとしたが程昱(ていいく)の反対により断った。(『武帝紀』)

袁紹ははじめ(劉虞を擁立しようとするなど)献帝を支持しなかったが、後によしみを通じようとした。郭図は献帝の身柄を引き取り鄴へ遷都するよう進言したが、却下された。
やがて曹操が献帝を助け、許昌へ遷都すると袁紹は後悔した。
献帝は太尉、次いで大将軍・鄴侯を与えたが、袁紹は爵位を辞退した。(『袁紹伝』)

はじめ曹操が大将軍、袁紹が太尉を打診されたが、袁紹は曹操の下風につくことを恥辱と考え断ったため、曹操が大将軍を譲った。(『武帝紀』)

袁紹は献帝を奪われたことを恨み、無礼な手紙を送った。曹操は激昂したが、配下は張繡(ちょうしゅう)に敗れたばかりなのでそれに怒っていると考えた。
荀彧は「公(曹操)は過ぎたことを悔やまない。他に理由があるのだろう」と考えて尋ねると、曹操は手紙を読ませ「道義に反する者(袁紹)を討伐したいが、その力が無い時はどうすればよい」と相談した。
荀彧は「袁紹は寛大に見えるが猜疑心が強く、人に仕事を任せながらその心を疑う。鈍重で決断に乏しく機会を見過ごす。統率に締まりはなく法令は実施されず兵数は多いが使いこなせない。先祖の功績に寄りかかりもっともらしい態度で知恵者のふりをして名声を集めるから、能力に乏しい議論好きなだけの人材しかいない」と欠点を数え上げ、今後の方策を立てた。
後の官渡の戦いに際しても袁紹配下の欠点を列挙し、その末路を予想しことごとく的中させた。(『荀彧伝』)

毛玠(もうかい)は「袁紹・劉表は多くの官民を率い強力ですが、将来を見通す思慮を持たず、基礎も固めていません」と評した。(『毛玠伝』)

195年、張超が曹操に攻められると、臧洪は救援の兵を借りたいと申し出たが、袁紹は認めず、張超は戦死した。臧洪は袁紹を恨んで挙兵し、降伏勧告を拒絶し、処刑された。(『臧洪伝』)

公孫瓚は劉虞を殺したため旧臣と袁紹に攻撃され、劣勢に陥ると易京に築いた要塞に立て籠もった。守りは固く袁紹は何年経っても落とせなかった。
199年、袁紹が全軍を上げて包囲すると、公孫瓚は息子を使者に立てて黒山賊に救援させ、自らも打って出て挟撃しようとした。だが袁紹は連絡の手紙を手に入れると狼煙を上げて偽の合図を出し、公孫瓚をおびき寄せて撃破した。そして地下道を掘り進めて易京を攻略し、追い詰められた公孫瓚は自害した。(『公孫瓚伝』)

黒山賊の張燕(ちょうえん)は公孫瓚に味方したが劣勢となり、曹操に降伏した。(『張燕伝』)

袁紹は北方を制圧すると、長男の袁譚(えんたん)を(事実上、廃嫡し)青州刺史に任じた。沮授は後継者争いを招く災いの種になると反対したが、袁紹は「息子たちにそれぞれ一州を任せたいのだ」と言い、次男の袁煕(えんき)を幽州刺史、甥の高幹(こうかん)を并州刺史に任じた。
そして十万の大軍を編成し、曹操討伐のため南進した。(『袁紹伝』)

曹操配下らはとても敵わないと恐れたが、曹操は「私は袁紹の人柄を知っている。志は大きいが知恵は小さく、顔つきは厳しいが肝は細く、人を妬んで上に出ようとするから威厳がない。兵は多いがけじめが無く、将は威張りくさり、政治は一貫性がない。土地は広く糧食が豊かでも、私への捧げ物となるだけだ」と言った。(『武帝紀』)

帝位を僭称した袁術は199年、連敗により勢力を失い、袁紹に帝位を譲り助けてもらおうとしたが、劉備・曹操に道を阻まれ、道中で病没した。(『武帝紀』・『袁術伝』)

200年、曹操は徐州で反乱した劉備の討伐に向かい、田豊(でんほう)は曹操の背後を襲うよう進言したが、袁紹は生まれたばかりの息子が病気で心配だと却下した。田豊は杖で地面を叩き憤慨した。
劉備は撃破され、袁紹を頼った。(『袁紹伝』)

劉備はかつて茂才に推挙したため、袁譚に歓迎された。袁紹も将軍を派遣し、自らも本拠地の鄴から2百里も外まで出迎えた。
袁紹は劉備を汝南郡の黄巾賊と連携させたが、曹仁に撃破された。劉備は離脱しようと企み、荊州の劉表と協力するよう進言した。(『先主伝』)

曹操配下らは袁紹に背後を襲われることを危惧したが、曹操は「劉備は傑物で今討伐しなければ後の災いとなる。袁紹は大きな志を持っているが機を見るに敏ではない。きっと動かないだろう」と言い、郭嘉も同意した。(『武帝紀』)

袁紹は劉表に救援を要請したが、劉表は承諾しながら兵を送らず、中立を保った。
配下の韓嵩(かんすう)・劉先(りゅうせん)は曹操が勝つと見立て、よしみを通じるよう勧めたため、朝廷へ使者を送った。(『劉表伝』)

山中に5千軒を構えた田疇(でんちゅう)をたびたび招聘し、官位を与えたが全て拒絶された。(『田疇伝』)

張臶(ちょうせん)・胡昭(こしょう)もたびたび招聘されたが応じなかった。(『管寧伝』)

崔琰(さいえん)は献帝が曹操に推戴されており戦うべきではないと反対した。(『崔琰伝』)

袁紹軍10万が進軍し、程昱は700の兵で籠城していた。曹操が2千の援軍を送ろうとすると「袁紹は向かうところ敵なしと考えており、小勢には見向きもしないでしょう。しかし援軍が加われば攻撃してきますし、勝ち目はなく無駄に兵を失うだけです」と断った。
はたして袁紹軍は程昱を無視して通過した。(『程昱伝』)

袁紹・劉表は汝南郡の都尉の李通(りつう)を味方につけようとしたが、どちらも断られた。
親族は早く袁紹に従うよう懇願したが、李通は「曹操は賢明で必ず天下を平定する。袁紹は強く威勢は良いが、(人材の)任命も使用もでたらめで最後は曹操に捕らえられる」と言い、袁紹の使者を殺し曹操に仕えた。(『李通伝』)

王粲(おうさん)は「袁紹は賢人を好むが起用できず、優れた人物は彼のもとを去っていく」と評し、曹操の人材起用を讃えた。(『王粲伝』)

楊阜(ようふ)は「袁紹は寛大だが果敢に法を守らず、策略を好むが決断力がない。果敢さがなければ威厳がなく、決断に欠ければ上手く行かない」と曹操の勝利を予見した。(『楊阜伝』)

袁紹の配下が罪を犯した時、牽招(けんしょう)は先に処刑してから報告した。袁紹は評価し罪に問わなかった。(『牽招伝』)

顔良(がんりょう)を先鋒に立てると、沮授は「彼は武勇に優れるが、こせこせした性格で任せられない」と反対した。袁紹は聞き入れず、顔良は戦死した。さらに文醜(ぶんしゅう)も戦死し、たった二戦で大将を二人失った軍は大恐慌に陥った。
両軍は官渡で対峙し、沮授は曹操軍の兵糧不足を見抜き、持久戦を勧めたが袁紹はこれも聞かなかった。
櫓を建てて高所から矢を射かけさせると、曹操は発石車を造って櫓を破壊した。袁紹が地下道を掘らせると塹壕を掘って対処し、奇襲部隊に輸送隊を襲わせた。
だが兵力で劣る曹操は次第に追い詰められ、離反者も増え、兵糧も欠乏した。(『袁紹伝』)

曹操は撤退を考えたが、荀彧に「今こそ天下分け目の時です。袁紹は凡人の豪傑に過ぎないが、あなたには神のごとき勇武と英智があるうえ天子を推戴し正義があります」と説得され思いとどまった。(『武帝紀』)

曹操に方策を相談された賈詡は「公(曹操)は袁紹に聡明さ、勇敢さ、人の使い方、決断力で勝ります。それなのに半年掛かって勝利を得られないのは、万全を期しているからです。機を逃さず決断すればたちどころに片付くでしょう」と答えた。(『賈詡伝』)

袁紹は韓荀(かんじゅん)に命じて西方の交通を遮断させようとしたが、曹仁に撃破されると二度と別働隊を出さなくなった。曹仁・史渙(しかん)は袁紹軍の輸送隊を襲った。(『曹仁伝』)

袁紹は淳于瓊(じゅんうけい)に命じて輸送車を迎えに行かせた。沮授は「蒋奇(しょうき)に別働隊を与え、奇襲に備えるべきです」と言ったが袁紹はこれも聞かなかった。(『袁紹伝』)

袁紹の参謀の許攸(きょゆう)が寝返り、淳于瓊の動きを伝えた。側近らは罠を疑ったが、荀攸(じゅんゆう)と賈詡は事実と読んだ。(『武帝紀』)

曹操は自ら奇襲部隊を率い、烏巣に駐屯した淳于瓊を襲い、補給路を断った。
袁紹配下の張郃(ちょうこう)・高覧(こうらん)は曹操に降伏し、袁紹軍は総崩れとなった。
袁紹・袁譚はただ一騎で黄河を渡って逃げ、逃げ遅れた沮授は捕らえられ、袁紹のもとに帰ろうとして殺された。(『袁紹伝』)

袁紹は烏巣襲撃を聞くと「先に曹操のいない本陣を落とせばいい」と意に介さず、張郃・高覧に攻撃させたが落とせず、大敗を招いた。(『武帝紀』)

張郃は「淳于瓊を救援すべきだ」と言い、郭図は「本陣を攻撃すれば曹操は引き返す」と反対した。張郃はさらに「本陣は堅固で落とせない。淳于瓊が敗れれば我々は全て捕虜になります」と言ったが、郭図の意見が容れられた。
本陣は落とせず、淳于瓊は斬られて袁紹軍は総崩れとなり、郭図が「張郃は敗戦を喜んでいます」と讒言したため、張郃は曹操に降伏した。
(※裴松之は「武帝紀」と「袁紹伝」には張郃の降伏により袁紹軍は総崩れとなったとあり、記述が混乱している」と指摘する)(『張郃伝』)

田豊は出陣前に、沮授と同じく持久戦を提案したが、袁紹は士気を下げると怒り投獄した。
袁紹が大敗すると、ある人がこれから田豊は尊重されるだろうと言ったが、田豊は「勝ったなら許されただろうが、負けたなら殺されるだろう」と答えた。
はたして袁紹は「田豊の意見を聞かなかったから嘲笑される羽目になった」と言い、彼を処刑した。
袁紹はおっとりと上品に見え、度量があり喜怒哀楽を表に出さないが、内心は嫌悪の情が激しく、このような例が全てだった。(『袁紹伝』)

冀州でも多くの反乱が起き、201年(『武帝紀』)にそれは鎮圧したものの、敗戦の憂悶から病を得て、202年に没した。
下の子の袁尚(えんしょう)を美貌のため寵愛し、後継者にしたいと思っていたが、指名しないまま没してしまい、激しい後継者争いを引き起こした。
曹操はそれに付け込み勢力を削って行き、207年に袁氏勢力を一掃し北方を制圧した。(『袁紹伝』)

かつて三郡烏丸は幽州へ侵攻し、漢民族10万戸を支配下に置いた。袁紹は彼らの長を(勝手に)単于(王)に取り立ててやり、配下の娘を自分の養女として嫁がせ、協力を得た。そのため袁煕・袁尚は曹操に追われると三郡烏丸を頼った。(『武帝紀』・『烏丸伝』)

204年、曹操は鄴を陥落させると、袁紹の墓に詣でて祀り、涙を流した。
袁紹の妻をいたわり、下僕と宝物を返還し、衣服や米を与えた。
かつて袁紹と曹操は展望を語り合った。袁紹は「南は黄河を盾にし、北は異民族の力を得て、南進して天下の覇権を争えばだいたい成功できるだろう」と言い、曹操は「天下の智者と勇者を集め、道義をもって制御して彼らに任せれば、上手く行くだろう」と言った。(『武帝紀』)

諸葛亮は劉備に「曹操は袁紹に比べ名声も軍勢も劣ったが勝利したのは、単に天の与えた時節によるものではなく、人間のなす計略によるものです」と語った。(『諸葛亮伝』)

213年、曹操が魏公に任命された時の詔勅に「袁紹は天理を無視してかき乱し、国家を危うくしようと企み、軍勢を頼みに兵力を誇示し、(国家を)あなどる醜悪な輩だった」と記される。(『武帝紀』)

劉備が益州を制圧すると、曹操は討伐を考えた。
劉廙(りゅうよく)は「孫権・劉備の実績は袁紹と比較にもならないほど小さいのに、袁紹は滅亡したが両者は健在である」と言い、まず内政で国力を蓄えるべきだと進言したが、曹操は聞き入れなかった。(『劉廙伝』)

陳寿は「袁紹・劉表は威厳に満ちた風貌と度量見識があり、評判高い人物だった。しかしどちらも表向きは寛大でありながら内心は猜疑心が強く、謀略を好むが決断力が無く、有能な人材がいても用いられず、良い意見を耳にしながら聞き入れず、嫡子を退け庶子を後継者にし、(嫡子を立てる)礼を顧みず(庶子への)愛情を優先した。後継者の代に滅亡したのは不幸な出来事とは言えない。
項羽は笵増の意見を聞かず身を滅ぼしたが、袁紹が田豊を殺したのはそれよりもはるかに酷い」と評した。