袁譚  名実ともに袁紹の後継者



袁譚(えんたん)字は顕思(けんし)
豫州汝南郡汝陽県の人(?~205)

袁紹の長男。
「袁紹伝」に附伝される。

「典論」に曰く、恵み深い性格だった。(『袁譚伝』)

袁紹は北方を制圧すると、長男の袁譚を(事実上、廃嫡し)青州刺史に任じた。沮授(そじゅ)は後継者争いを招く災いの種になると反対したが、袁紹は「息子たちにそれぞれ一州を任せたいのだ」と言い、次男の袁煕(えんき)を幽州刺史、甥の高幹(こうかん)を并州刺史に任じた。(『袁紹伝』)

「漢晋春秋」に曰く、審配(しんぱい)が袁譚へ出した文書で「袁紹は袁譚を廃嫡し、兄の後を継がせた。袁紹は袁譚を兄の子と呼び、袁譚は袁紹を叔父と呼んだ」とある。(『袁譚伝』)

「九州春秋」に曰く。
袁譚が青州に赴任した時は都督で、曹操が上奏し青州刺史に任命してやった。
領土は平原郡だけだったが、田楷(でんかい)・孔融(こうゆう)を撃破し版図を広げた。
はじめ領民は長らく支配者がいなかったため歓迎したが、袁譚は佞臣を重用し、奢侈淫蕩におぼれ、政治を顧みず、賓客や士人だけをもてなした。
妻の弟に兵を統率させたが、彼らは略奪を働き田畑を荒らした。徴兵させたが賄賂を払う者は見逃され、貧民が山へ逃げると獣を追うように山狩りした。
人口は1万戸あるはずが、戸籍には数百戸しか登録されず、税収は見込みの3分の1だった。
招聘された人物は応じず、(逃げ隠れもせず)家にいるのにそれを取り締まる者すらいなかった。(『袁紹伝』)

王脩(おうしゅう)は治中従事に招かれた。劉献(りゅうけん)は王脩を目の敵にし欠点をあげつらったが、罪を犯し死刑になると、劉献を弁護してやり、人々を感心させ、袁紹からも主簿に招かれたが、袁譚の別駕に復した。(『王脩伝』)

長広郡は豪族の力が強く、袁譚は彼らに官位を与えて援助していたが、太守に赴任した何夔(かき)によって一掃された。(『何夔伝』)

199年、連敗により勢力を失った袁術は、袁紹に帝位を譲り助けてもらおうと考え、青州の袁譚のもとへ向かったが、劉備・曹操に道を阻まれ、道中で病没した。(『武帝紀』・『袁術伝』)

曹操に反乱し敗れた劉備は、かつて茂才に推挙した袁譚を頼り、歓迎された。袁紹も将軍を派遣し、自らも本拠地の鄴から2百里も外まで出迎えた。(『先主伝』)

200年、官渡の戦いに敗れた袁紹・袁譚はただ一騎で黄河を渡って逃げた。(『袁紹伝』)

父は下の子の袁尚(えんしょう)が美貌のため寵愛し、内心では後継者にしたいと思っていたが、指名しないまま202年に没した。
袁譚を支持する辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)と、袁尚を支持する審配・逢紀(ほうき)は険悪の仲で、もし袁譚が後を継げば迫害されると恐れ、審配・逢紀は袁尚に後を継がせた。
袁譚はやむなく車騎将軍を自称した。

曹操が兵を進めると、袁譚が迎撃に出たが、袁尚はわずかな兵しか与えず、しかも逢紀に軍を監督させた。援軍要請も却下された袁譚は立腹し逢紀を殺した。
曹操軍が黄河を越えると袁尚は増兵を考えたが、袁譚に奪われるのを恐れて取りやめ、自ら援軍を率いて出撃したが敗北した。(『袁譚伝』)

諸将は勝ちに乗じるよう言ったが、郭嘉は「追い詰めれば袁譚・袁尚は結託し、緩めれば必ず争います。荊州の劉表(りゅうひょう)を攻めるふりをして情勢の変化を待ち、それから攻撃すれば一挙に平定できます」と言い、曹操も同意した。(『郭嘉伝』)

曹操が劉表討伐のため引き上げると、ついに袁譚・袁尚は戦い始め、敗れた袁譚は平原郡まで逃走した。

「魏氏春秋」に曰く、劉表は故事を引き停戦を呼びかけたが袁譚・袁尚は全く聞き入れなかった。

「漢晋春秋」に曰く、審配は兄弟の争いをやめ、奸臣の郭図を殺すよう袁譚に手紙を送った。
「典略」に曰く、読み終えた袁譚は落ち込み、涙を流したが、郭図に脅迫されているうえ、すでに戦いは後戻りできないところまで来ており、争いは続いた。(『袁譚伝』)

王脩は兵や民を引き連れ救援し、袁譚は「我が軍を成り立たせているのは王脩だ」と喜んだ。
劉詢(りゅうじゅん)らが反乱すると、袁譚は自分の不徳のせいだろうかと嘆いたが、王脩は「管統(かんとう)はきっと来ます」と言った。10日後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。
袁譚は袁尚に反撃しようとしたが、王脩は「兄弟はいわば両手であり、互いに争うのは、戦いを前に右手を切り捨て、必ず勝つぞと言うようなものです。そもそも兄弟で争う者に誰が親愛の情を持ってくれるでしょう。争わせようとする佞臣を殺し、兄弟で協力してください」と言った。袁譚は彼の意志と節義は認めていたが聞き入れず、袁尚と戦った。(『王脩伝』)

203年、追撃された袁譚は曹操に救援を求めた。曹操は利用されていると知りながら、息子と袁譚の娘をめあわせるなどして警戒を解き、袁尚を撃破した。(『袁譚伝』)

「英雄記」に曰く。
郭図が「曹操に袁尚を攻めさせ、その隙に袁尚の領土と兵を奪う。曹操は遠征で兵糧が続かず必ず逃げるから、北方は全て我々のものになり、また曹操と戦える」と言い、使者に辛毗(しんぴ)を推薦した。(『辛毗伝』)

「魏略」に曰く。
曹操は「劉表は我々が呂布・袁紹と戦った時も静観した。自己保全だけを考えていて後回しでいい。狡猾な袁譚・袁尚の争いに付け込むべきだ。袁譚が不誠実でいずれ反乱するとしても、その間に袁尚を破れば利益は多い」と降伏を受け入れた。(『武帝紀』)

臣下の多くは先に劉表を討伐すべきだと言ったが、荀攸(じゅんゆう)は「劉表はいつも動かず野心がありません。袁紹の北方の統治は盤石で、もし袁譚・袁尚が結託すれば天下の兵難はまだまだ続きます」と反対した。(『荀攸伝』)

「魏書」に曰く。
袁譚は袁尚配下から曹操に降伏した呂曠(りょこう)へ、内密に将軍の印綬を贈った。呂曠がそれを曹操に告げると「袁譚のこざかしい計略はわかっている。私に袁尚を攻撃させている隙に勢力を広げ、疲弊した我が軍を倒すつもりだ。だが我が軍は袁尚を破れば勢い盛んになるのにどうやって勝つつもりだ」と意に介さなかった。(『武帝紀』)

204年、曹操が兵を引くと再び袁尚は袁譚を攻めたが、曹操はその隙に袁尚の本拠地の鄴を陥落させた。
袁尚は降伏しようとしたが許されず、鄴を包囲している間に袁譚も次々と袁尚の領土を奪取し、ついに袁尚の兵を全て奪った。
曹操は約定違反を責め、袁譚の娘を返し、攻撃した。袁譚は恐怖し渤海郡南皮県へ逃げた。
205年、袁譚・郭図は戦死し、妻子も処刑された。(『武帝紀』・『袁譚伝』)

南皮の包囲戦で袁譚の反撃により多数の被害が出ると曹操はひるんだが、曹純(そうじゅん)が「千里の彼方から遠征し、撤退すれば威光を失いますし、遠征軍は長期戦はしづらいものです。敵は勝利につけあがり、我々は敗北で慎重になっていますから、必ず勝てます」と励まし、曹操は激しく攻勢に出た。
曹純の騎兵が袁譚を討ち取った。(『曹純伝』)

兵糧輸送をしていた王脩は駆けつけようとしたが間に合わず、途中で袁譚の戦死を聞いた。
王脩は曹操に遺体を引き取りたいと願い出たが、彼を試そうと曹操は黙って返事をしなかった。王脩は死刑に処されても構わないと覚悟を示し、曹操は願いを聞き入れた。

「傅子」に曰く、曹操は袁譚を殺すと、哭礼する者は妻子もろとも処刑すると布告した。王脩と田疇(でんちゅう)は「生前の袁譚に招聘されながら、死後に哭礼しなければ道義に外れる」と話し合い、ともに哭礼した。曹操は義士であるとして赦した。
ただし裴松之は「田疇が袁譚に仕えた記録はない」と疑義を示している。(『王脩伝』)

「九州春秋」には「袁譚は華彦(かげん)、孔順(こうじゅん)ら佞臣を腹心とし、王脩らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記されるが、「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。(『袁紹伝』)