韋康  馬超に屈する



韋康(いこう)字は元将(げんしょう)
司隷京兆尹杜陵県の人(??~213)

魏の臣。
韋端(いたん)の子。
韋誕(いたん)の兄。

兄弟揃って名高く、孔融(こうゆう)は父の韋端へ「韋康は底知れず才能が輝きわたり、度量大きく、意志が強く、世に優れた人材」と評し「ドブガイが生んだ2つの真珠」と皮肉交じりに讃えた。

涼州牧を務めていた韋端が都に召されると、世襲制ではないにも関わらず、子の韋康が涼州刺史となり、人々に名誉であるともてはやされた。(『荀彧伝』)

韋端に重用されていた楊阜(ようふ)は、朝廷から安定郡の長史に任じられると、性に合わなかったため官を辞したが、涼州刺史になった韋康に召され別駕を務めた。後に孝廉に推挙されたが、韋康は上奏して引き止めた。

213年、馬超・張魯(ちょうろ)軍は韋康らの籠もる冀城を包囲した。8ヶ月にわたり防戦したが援軍は現れず、救援要請に出した閻温(えんおん)も捕らえられると、韋康は降伏を考えた。楊阜は泣いて諌めたが韋康は聞き入れず降伏し、殺害された。

「列女伝」に曰く、韋康は平素から情け深く、官吏が飢えに苦しみ、傷つき死ぬのを哀れんで降伏したが、馬超は約定を違えて彼を殺した。(『楊阜伝』)

夏侯淵が救援に向かっていたが到着前に落城した。(『夏侯淵伝』)

楊阜は韋康の復讐のため王異ら残党と協力し、馬超を撃退した。(『楊阜伝』)

荀彧が推挙した人物の中で、厳象(げんしょう)と韋康だけが戦死し任を全うできなかったとされるが、両人とも刺史に上っており、荀彧の人物鑑定眼の確かさが示されている。(『荀彧伝』)

「演義」でもほぼ同様の事績が語られる。