殷署  馬超・韓遂の残党を率いる



殷署(いんしょ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の将。

211年、曹操は潼関の戦いで馬超・韓遂(かんすい)を討伐すると、その残党5千人を平難将軍の殷署に任せ、趙儼(ちょうげん)を関中護軍として総指揮を取らせた。

漢中の守備を助けるため、殷署が1200人の兵を率い出発した。兵は突然の命令で家族と引き離されたため、みな憂鬱な表情をしており、趙儼はそれを見て心配になり、一日遅れで彼らに追いつくと、一人ひとりをねぎらい、殷署にも注意を促した。
はたして40里ほど進んだところで兵は反乱し、殷署の消息も途絶えた。趙儼は雍州刺史の張既(ちょうき)のもとで休んでいたが、急報を聞き出発しようとした。配下の150人はいずれも反乱兵と同じ部隊で縁戚の者も多く、動揺しており、張既は「小勢で向かっても仕方ない。まず情報を集めるべきだ」と言ったが、趙儼は「本隊もまだ動かないだろう。ぐずぐずしていたら反乱が拡大する恐れもある。それに総指揮を任された私が鎮圧できなければ、私に災難が及ぶのは運命だ」と言い、出立した。
30里ほど進むと兵を休息させ、動揺する彼らをなだめすかしたため、彼らは忠誠を誓った。反乱兵を見つけると指導者だけを処罰し、その他の者は不問に付したため、こぞって降伏してきた。
趙儼は曹操へ(殷署が指揮していた)韓遂・馬超の残党を漢中へ援軍として送り、古参の兵に関中を守らせるよう依頼した。まず劉柱(りゅうちゅう)が2千の古参兵で守備を引き受け、その後に残党が送られる手はずだったが、計画が漏洩し、また家族と引き離され、それに乗じてまた反乱が起こるのではと諸将は動揺した。
趙儼は(反乱しそうにない)温厚な兵1千人で守備を固めさせ、その他の者を東方(漢中)へ送ると通告し落ち着かせた。
兵の名簿を集めて部隊を上手く編成し、少しずつ東方へ送り、守備兵もなだめすかして結局は送り、合計で2万人余りを移動させた。(※後世の孫盛は約束を違え信義にもとると批判している)(『趙儼伝』)

219年、樊城の曹仁が関羽に包囲され、援軍の于禁(うきん)も撃退されると、続いて徐晃が関羽の迎撃に乗り出した。
しかし兵力が不足していたため、曹操は呂建(りょけん)、徐商(じょしょう)を派遣し、さらに殷署・朱蓋(しゅがい)を加えた。
徐晃は包囲陣を破り、孫権が裏切って背後を脅かし、関羽は敗死した。(『徐晃伝』・『関羽伝』)

「演義」には登場しないが「蒼天航路」では徐晃の援軍として参戦し、夏侯惇に扮して関羽の兵を驚かせたものの戦死した。