伊籍  馬鑑定だけじゃない



伊籍(いせき)字は機伯(きはく)
兗州山陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

若い頃から同郷の劉表(りゅうひょう)に仕える。劉備が荊州に身を寄せると親交を深め、208年に劉表が没した後は劉備に従うようになった。

214年、劉備が益州を制圧すると左将軍従事中郎となり、古参の簡雍(かんよう)・孫乾(そんけん)らに次ぐ待遇を受けた。

呉に使者として赴いた時、弁舌家で知られる彼を試そうと、拝礼されるなり孫権は「無道な君主に仕えるのは苦労するか」といきなり切り込んだ。しかし伊籍はすぐさま「一度拝礼してまた立つだけで、苦労というほどのことはありません」と(※劉備のことを聞かれたのに孫権のことにすり替え)やり返した。伊籍の機智は全てこういうふうで、孫権はいたく感心した。

後に昭文将軍に上り、諸葛亮、法正(ほうせい)、李厳(りげん)、劉巴(りゅうは)らと五人で蜀の法律「蜀科」を作り上げた。(『伊籍伝』)

陳寿は麋竺(びじく)・孫乾・簡雍・伊籍を「のびのびした態度で見事な議論を行い、礼遇された」と評した。

「ちくま版」では1ページにも満たない記述しかないが、「演義」では劉備に的廬(てきろ)が凶馬だと教えたり、馬良(ばりょう)を推挙しともに関羽の参謀を務めるなど、地味ながら多くの出番を作られた。