温恢  遺産を捨てた男



温恢(おんかい)字は曼基(まんき)
并州太原郡祁県の人(??~??)

魏の臣。

家は裕福だったが15歳の時に父を亡くすと、乱世の折に財産を持っていてもしかたないと、遺産を全て親族に分け与え、郷里で称えられた。
孝廉に推挙され廩丘県長・鄢陵県令・広川県令・彭城国相・魯国相を歴任し、全てで治績を上げた。(『温恢伝』)

孫礼(そんれい)の母が行方不明になった時、馬台(ばい)が探し当て、孫礼は喜び家財を全て彼に譲った。
後に馬台が死刑になると、孫礼は彼を脱獄させ、自首した。だが馬台も「私に逃亡する道理はない」と自首した。
刺奸主簿の温恢は両名の行いを意気に感じて曹操に取りなし、死刑の一等下の罪に減らした。(『孫礼伝』)

都に上り丞相主簿となり、曹操は「お前を側近くに置いておきたいと強く思うが、州の政治の重大さには比べられない」と言い、揚州刺史に任じ、蔣済(しょうせい)を補佐に付けた。そして合肥に駐屯する張遼・楽進(がくしん)らに「温恢は軍事に通達しているから、よく相談せよ」と命じた。(『温恢伝』)

張遼は温恢に胡質(こしつ)を部下にもらいたいと願い出たが、胡質は病気を理由に断った。張遼が自ら訪れなぜ断るのか問い詰めると、武周(ぶしゅう)と彼が険悪なのを挙げ「以前あなたは武周を称賛していたのにわずかな恨みから険悪となっている。武周に劣る私ではなおさらあなたとは上手く付き合えないでしょう」と言い、張遼は反省し武周との関係を修復した。(『胡質伝』)

219年、孫権が合肥を攻めると、温恢は兗州刺史の裴潜(はいせん)に「合肥よりも荊州が心配だ。川の水かさが増えているのに曹仁は孤立し、危機に気づいていない。関羽に攻められれば一大事だ」と話した。果たして曹仁は関羽に樊城を包囲され窮地に陥った。
曹操は詔勅を下し、裴潜と豫州刺史の呂貢(りょこう)を呼び寄せたが、ゆっくり来るよう言いつけた。温恢はこれを陽動と見抜き「民衆を動揺させないための手立てで、すぐ荊州へ転進するよう命令が来るはずだ。張遼らにも同じ命令が下るだろうが、彼らもきっと気づいている。彼らに後れを取れば、君は咎められるぞ」と裴潜に忠告した。
果たしてすぐに転進の命令が届いたが、裴潜は忠告を聞き入れ輜重隊を減らし軽装兵を中心に編成していたためすぐに駆けつけられ、面目を保った。

220年、曹丕が帝位につくと侍中に上り、魏郡太守、次いで涼州刺史・持節領護羌校尉に任じられたが、向かう途中に没した。享年45。
曹丕は「国家の柱石たる素質を持ち、先帝(曹操)からの功績は明白である。事務を執行し王室に忠誠だった。だからこそ万里彼方の任務を授け、一方面の政治を任せたのである。だが中途で倒れてしまい、甚だそれを悼む」と詔勅を下し、子の温生(おんせい)を関内侯に封じたが、早逝し爵位は途絶えた。

諸葛亮の友人としても知られる孟建(もうけん)が代わって涼州刺史を務め、優れた政治と称えられた。(『温恢伝』)

陳寿は劉馥(りゅうふく)・司馬朗(しばろう)・梁習(りょうしゅう)・張既(ちょうき)・温恢・賈逵(かき)を同伝に収め「先代にただ監督するだけだったのと異なり、後漢末の刺史は諸郡を統括し行政をした。魏では彼らが評判を取り、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に通じ、威厳と恩恵が現れていたから、万里四方の地を引き締め、後世に語られたのである」と評した。

「演義」はもちろんほとんどの創作に登場することはなかったが「蒼天航路」で特徴的な丸顔とともにようやく活躍が描かれた。