王平  戦場で育った武人



王平(おうへい)字は子均(しきん)
益州巴西郡宕渠県の人(?~248)

蜀の将。

母方の家の養子となり何平(かへい)と名乗ったが、実家に戻り王姓に復した。
戦場の中で育ったため文字を10個も知らず、口述筆記で文章を書かせたが、いずれも筋が通っていた。「史記」や「漢書」をひとに読ませて学び、論評をすると本質を射止めていた。
法や規則を遵守し、冗談の類は一切口にせず、朝から晩まで座ったままで、まるで武人のように見えなかった。
一方で偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄なのは欠点だった。

杜濩・朴胡(異民族)とともに洛陽へ上り、校尉に任じられた。
215年、曹操の漢中征伐に従ったが、蜀へ降伏し牙門将・裨将軍に任命された。

228年、街亭の戦いで山上に布陣しようとする馬謖を何度も諌めたが却下され、大敗を喫した。
王平の率いる1千の兵だけは陣太鼓を鳴らし踏みとどまったため、敵将の張郃は伏兵を恐れて近づかず、その隙に敗残兵を収容し撤退した。
戦後、馬謖や副将は処刑されたが、王平は参軍を加えられ、五部の兵(異民族部隊?)を統率し、討寇将軍に上り、亭侯に封じられた。

231年、諸葛亮が祁山を攻めると、王平は南の軍営を守り、張郃に攻撃されたが防ぎ切った。(『王平伝』)

「漢晋春秋」に曰く、王平は無当監(精鋭部隊の指揮官)を務めていた。

張郃は撤退する蜀軍に追撃を掛け、射殺された。(『諸葛亮伝』)

234年、諸葛亮が陣中で没し、撤退中に魏延が反乱したが、一度の戦いで魏延を討ち取れたのは、王平の功績である。(『王平伝』)

王平が魏延を迎え撃ち、「公(諸葛亮)の遺体がまだ冷たくならないうちになぜこのようなことをするのか」と一喝すると、魏延に非があることを知っていた配下らは戦わずに四散し、馬岱が追撃して魏延を討ち取った。(『魏延伝』)

後典軍・安漢将軍に上り、呉懿(ごい)の副将として漢中を守り、漢中太守を兼任した。

237年、安漢侯に爵位が進み、呉懿に代わり漢中の総指揮官となった。

238年、蔣琬(しょうえん)が漢中に幕府を開くと、前護軍として事務を司った。

243年、蔣琬が病にかかり後方の涪城に下がると、前監軍・鎮北大将軍に上り漢中の指揮をとった。(『王平伝』)

244年、曹爽(そうそう)が10余万の兵で攻め寄せると、漢中の兵は3万足らずだったため、ある者が関城まで戦線を下げ(蔣琬のいる)涪城の本隊の救援を得るべきだと進言した。
しかし王平は「涪城は遠く、関城が落ちれば災いの種となる。劉敏(りゅうびん)と杜祺(とき)を興勢山に立て籠もらせ、私が後方の備えに当たり、本隊の到着まで時間を稼ごう」と言った。
劉敏だけが「民衆は田畑に出て、穀物も収穫されていない。籠城したら取り返しの付かないことになる」と賛成し、百余里にわたって旗や幟を立てて魏軍を撹乱した。費禕(ひい)の本隊が到着すると、王平の読み通りに魏軍は撤退した。(『王平伝』・『蔣琬伝』)

かつて劉備が漢中の諸陣営に十分な兵を配備しておき、この制度が続いていたため、勝利を得たのである。
後に姜維が「防御にはふさわしいが大勝は得られない」として2つの城に兵をまとめたが、魏軍はその2城を包囲だけさせて進軍し、裏目に出た。(『姜維伝』)

当時、東を鄧芝(とうし)、南を馬忠(ばちゅう)、北を王平が統治し、いずれも優れた功績を上げた。
248年に没し、子の王訓(おうくん)が後を継いだ。

同郡の句扶(こうふ)は王平に次ぐ功名や爵位を得た。
「華陽国志」に曰く、張翼(ちょうよく)・廖化(りょうか)とともに昇進し、人々は「前に王平・句扶あり。後に張翼・廖化あり」と称えた。

陳寿は「忠誠勇武にして厳しい生活態度を示した」と評した。

「正史」・「演義」ともに数ヶ所で旧姓の何平で記される。
また異民族とともに朝貢し、おそらく外人部隊と思われる五部の兵を率いたり、文字をほとんど知らなかったりするため、王平自身も異民族の出身と推測される。

「演義」では定軍山の戦い後、漢中の地理に詳しいため徐晃の道案内を務めたが、敗戦の責任をなすりつけられそうになり蜀に寝返った。一連の徐晃は「演義」でも剛直な武人として描かれる彼のキャラから著しく外れ、きわめて不自然である。
その後は蜀の主力として活躍し、オリキャラの岑威(しんい)を一騎打ちで斬ったり、夏侯楙(かこうぼう)をたった数合で捕らえたりと、かなり武芸に優れた様子が描かれる。