王基  魏後期の完璧超人



王基(おうき)字は伯輿(はくよ)
青州東莱郡曲城県の人(??~261)

魏の臣。

若くして父を失い、叔父の王翁(おうおう)に実子のように慈しまれ、王基も孝行を称えられた。(『王基伝』)

童子の頃に王脩(おうしゅう)に評価された。(『王脩伝』)

17歳で早くも郡に召し出されたが、水が合わず辞去し琅邪郡へ遊学した。
黄初年間(220~226)に孝廉に推挙され、郎中となった。青州刺史の王凌(おうりょう)に見出され別駕となり、後に司徒の王朗(おうろう)から秘書郎に任じられたが、王淩は断った。王朗は怒り青州を弾劾したが、それでも王淩は応じなかった。
王淩の統治は称賛を得たが、王基の補佐によるところも大きい。
後に司馬懿に招かれ、中書侍郎に抜擢された。(『王基伝』)

241年、中書郎の時に管寧(かんねい)を推挙した。(『管寧伝』)

曹叡が宮殿造営に血道を上げると諫言した。
王朗の子の王粛(おうしゅく)は経書の注解を著し、鄭玄(じょうげん)の説を改変したが、王基は鄭玄を支持し常に対立した。
安平太守に昇進し、公的事件により官を去るも、大将軍の曹爽(そうそう)に従事中郎に任じられ、安豊太守となった。(『王基伝』)

安平太守の時、高名な占術師の管輅(かんろ)に占ってもらった。管輅は3つの怪異が起こったことを言い当て、しかし魑魅魍魎のいたずらに過ぎないと言い、障りは無かった。

「管輅別伝」に曰く。
王基は「易」を数日に渡り語り合い、「あなたは必ずや書物に名を残すだろう」と称えた。
また信都県令の家でも怪異が続いていたため占わせ、管輅は地下にある死体の呪いだと当てた。
王基は「若い頃から易を好んで読んだが、こんなに精妙とは思わなかった。あなたの言葉を聞いていると何かわかりそうな気がするが、結局は混乱して全然わからなくなる。これを理解できるのは天授の才能で、努力ではどうにもならないのだ」と言い、「易」をしまい二度と占いを学ぼうとしなかった。(『管輅伝』)

安豊郡は呉との国境だが、統治は清潔かつ厳格で威厳と恩恵を具えたため、攻められなかった。討寇将軍に上った。
呉が揚州を攻める気配を見せると、刺史の諸葛誕は王基に事態を予測させた。王基は「陸遜は死に、孫権は年老い、後継ぎも策士もいません。孫権が自ら出撃すれば災いを招き、配下に任せようにも古参は亡くなり新参は信頼できず、守りを固めるだけでしょう」と言い、その通りになった。
魏の実権を握る曹爽により教化が衰微すると、「時要論」を著して激しく指弾した。
病により免職され、平民から河南尹となったが、任命前の249年、曹爽が司馬懿によって粛清された。属官だった王基も先例により免職された。

同249年、尚書となり、荊州刺史に赴任した。揚烈将軍を加えられ、王昶(おうちょう)に従い呉を攻めた。
王基は夷陵を守る歩協(ほきょう)を攻め、兵糧庫を奇襲して30万石の米と、譚正(たんせい)ら数千人の捕虜を得た。捕虜を移住させて夷陵県を設置し、その功により関内侯に封じられた。(『王基伝』)

「呉書」には「王昶・王基が呉を攻めたが、戴烈(たいれつ)・陸凱(りくがい)の防戦により撤退した」と記される。(『呉主伝』)

さらに上昶に城を築いて江夏郡の役所をそこに移し、夏口に圧力を掛けたため、呉軍は容易に長江を渡れなくなった。
制度を明確にし、兵と農業を整え、学校を建てたため南方に名声が轟いた。
朝廷は呉を討伐できるか尋ねたが、王基は情勢を分析し万全の態勢ではないと反対し、取りやめられた。

司馬師が実権を握ると、政治の心得を説き、傅嘏(ふか)らを推挙した。
254年、曹髦が帝位につくと常楽亭侯に進んだ。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反乱を起こすと、行監軍・仮節として許昌の軍を率いた。司馬師に情勢を聞かれ「官民が反乱を願ったわけではなく、毌丘倹らが脅して従わせているだけです。大軍で迫れば勝手に瓦解します」と答えた。
先鋒を命じられたが、勇猛な毌丘倹らと正面からぶつかるのは得策ではないと進言され、詔勅により止められた。王基は「賊軍は進撃すらできずにいるのに、我々がためらいを見せれば勢いづきます。先手を打って戦意を奪うべきです」と何度も要請し、ようやく認められた。
司馬師が軍勢の集結を待とうとすると、たびたび進軍を促し、要害の南頓を占領させた。毌丘倹らも南頓を確保しようと動いていたが先を越されたため引き返した。文欽が兗州刺史の鄧艾を攻めると、王基は兵力が二分された今が好機と攻め、毌丘倹を討ち取った。
鎮南将軍・都督豫州諸軍事に上り、豫州刺史を兼任し、安楽郷侯に進んだ。養育してくれた叔父に報いたいと、王翁の子の王喬(おうきょう)に関内侯を与え、自分の領邑200戸を分けたいと上奏し許可された。(『王基伝』)

文欽は郭淮への手紙で「私が敗北したという偽報を信じ毌丘倹は逃げました。私は王基ら12軍を即刻撃破し、向かうところ全て勝ちましたが、救援が得られないため撤退しました」と盛大に吹いている。(『毌丘倹伝』)

257年、諸葛誕が寿春で反乱すると、鎮東将軍・都督揚豫諸軍事を兼務した。詔勅により籠城を命じられたが、反対し進撃を要請した。
呉から朱異(しゅい)が諸葛誕の救援に送られると、北山を占拠せよとの詔勅が下ったが「今は下手に動かず包囲陣を固めるべきだ。移動し籠城すれば人心は動揺する」と上奏し許可された。(『王基伝』)

呉から派遣された文欽・唐咨(とうし)は、王基の包囲陣が完成しないうちに山から難所を突破して寿春へ入った。(『諸葛誕伝』)

王基は包囲陣の東と南の二軍を率い、指揮を執る司馬昭は軍吏に、王基の部署ではその指示に従うよう命じた。諸葛誕は兵糧が尽きると何度も出撃したが、そのたびに王基に撃退された。(『王基伝』)

呉軍を率いる孫綝(そんちん)は命令に従わない朱異を殺し撤退した。諸葛誕は疑心暗鬼となり文欽を殺した。(『諸葛誕伝』)

翌258年に鎮圧すると司馬昭は「論者の多くは軍を移動するよう言い、私も前線に出るまではそうすべきと思っていた。しかし王基は利害を計算し、堅固な意志を貫き、上は勅命に、下は衆議に逆らったが大勝利を得た。故事にも見えないことだ」と称えた。
そして勝利に乗じて呉を攻めようとしたが、王基は「諸葛恪(しょかつかく)も姜維も同様に大勝に乗じようとして失敗しました。大勝を得れば敵を軽んじ、配慮が足りなくなります。この鎮圧で十万の捕虜と首級を得ましたが、こんな大勝はかつてないものです。武帝(曹操)が官渡の戦いに勝利した時も、追撃はしませんでした」と反対し取りやめさせた。
征東将軍・都督揚州諸軍事に転任し、東武侯に進んだが、固辞して補佐官に功績を譲ったため、7人が列侯された。
同年、母が没したが(※服喪させないため? 合葬を辞退させないため?)詔勅により王基には知らされず、父の王豹(おうひょう)の遺体を洛陽に迎え、両親揃って合葬させた。(『王基伝』)

習鑿歯は「司馬昭は諸葛誕を一度の征伐で捕らえ、進軍を止めた王基を褒め、反乱者を赦した」と徳義を称えた。(『諸葛誕伝』)

259年、征東将軍・都督荊州諸軍事に転任した。
260年、曹奐が帝位につくと1千戸を加増され、5700戸となり、2人の子が列侯された。
261年、呉の鄧由(とうゆう)が内応を申し出て、王基は進撃するよう命じられたが、疑念を抱き応じないよう進言し、司馬昭もそれに従った。結局、内応しなかった。

「戦略」に詳細が記される。
進撃を命じられた王基は地勢を分析し「道は狭く伏兵に襲われればひとたまりもありません。曹爽が蜀を、姜維が魏を攻め、文欽が反乱したが全て失敗しました。これらは戒めとすべき最近の出来事です。反乱が相次ぐ今は内を安定させるべきで、外に利益を求めるべきではありません」と反対した。

同261年に没し、司空を追贈され、景侯と諡された。
子の王徽(おうき)が後を継いだが早逝した。咸熙年間(264~265)に改めて功績を採り上げられ、孫の王廙(おうよく)が列侯された。
265年、司馬炎が帝位につくと「徳義を現し勲功を立てた上に、身を修めること清潔質素にして利殖を行わず、重職を歴任しながら余財が無かった」と称え、遺族に奴婢を下賜した。

陳寿は「学問・品行が堅固・潔白だった」と多くの武功よりもその内面を称え、徐邈(じょばく)・胡質(こしつ)・王昶とともに列伝し「いずれも地方の長官を司り、称賛を残し功績を現した。国家の良臣、当代の優れた人物と言ってよい」と評した。

「演義」でも毌丘倹・諸葛誕の反乱鎮圧で史実と同様に活躍。管輅の逸話にも登場する。