王国  合衆将軍の王国



王国(おうこく)字は不明
涼州漢陽郡の人(??~188)

賊徒。

184年、羌族と賊徒が反乱し、湟中義従の北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)・李文侯(りぶんこう)を頭目に立て護羌校尉の泠徴(れいちょう)を殺した。北宮伯玉らは辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)らをさらって兵を任せた。

「献帝春秋」に曰く。
涼州義従の宋建(そうけん)・王国らは反乱した。
偽って金城郡へ降伏し辺允(へんいん)・韓約(かんやく)へ面会を求め、韓約は渋ったが金城太守の陳懿(ちんい)は会うよう勧め、王国らに人質に取られた。
陳懿を殺し、辺允・韓約は反乱の一味と見なされ、賞金首となったためそれぞれ辺章・韓遂へ改名した。

186年、韓遂は北宮伯玉・李文侯・辺章を殺し兵を奪った。
隴西太守の李相如(りしょうじょ)は攻撃されると反乱軍に加わり、ともに涼州刺史の耿鄙(こうひ)を殺した。
耿鄙の司馬の馬騰(ばとう)も反乱して加わり、王国も合衆将軍と名乗り合流した。王国が指導者に立てられ三輔を侵略した。(『後漢書 董卓伝』)

「典略」に曰く。
耿鄙が不正な官吏を信任したため民は恨み、平民の王国や異民族が反乱した。(『馬超伝』)

187年、耿鄙は王国らを討伐しようとし、傅燮(ふしょう)に「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言されたが、却下して出陣し戦死した。
反乱軍は傅燮の守る漢陽郡を包囲した。王国は傅燮を惜しみ、元の酒泉太守の黄衍(こうえん)に説得させたが、傅燮は「貴様は朝廷に仕えながら逆賊に従うのか」と激怒し、突撃して玉砕を遂げた。(『後漢書 傅燮伝』)

188年、陳倉を包囲した反乱軍は董卓・皇甫嵩(こうほすう)の官軍に敗れ、王国を追放した。代わりに閻忠(えんちゅう)をさらい指導者にしようとしたが、閻忠は激しい怒りから病を得て没してしまい、韓遂らは地位を争いやがて分裂した。(『後漢書 董卓伝』)

「英雄記」に曰く、王国らが閻忠をさらい指導者にしようとしたが、閻忠は激しい怒りから病を得て没した。(『賈詡伝』)

「続漢書」に曰く、王国らの反乱軍は10万以上の大軍で陳倉を包囲した。(『後漢書 蓋勲伝』)

董卓は急ぎ陳倉を救援しようとしたが、皇甫嵩は「陳倉は小城だが守りは固く、王国は手強いが攻め落とせるほどの勢いはなく、急ぐ必要はない」と反対した。
はたして王国は冬から春にかけ80日余り包囲したが攻略できず、疲弊して撤退した。
皇甫嵩が追撃しようとすると、董卓は「窮した敵を追えば反撃を受ける。ましてや敵兵は多い」と止めたが、皇甫嵩は「私が攻撃しなかったのは衰えを待っていたからだ。王国は疲弊して逃げようとしており、窮した敵とはいえない」と言い、董卓を後詰めにして自ら追撃した。反乱軍を大破し1万の首級を上げ、王国も討ち取った。
献策が外れた董卓は大いに恥じて皇甫嵩を恨むようになった。(『後漢書 皇甫嵩伝』)

挙兵の経緯もその最後も諸説あり判然としない。
アイコンはインパクトある名前と合衆将軍から描かれた。