王伉  呂凱の相方



王伉(おうこう)字は不明
益州蜀郡の人(??~??)

蜀の臣。

223年、劉備が没した混乱に乗じ、益州南部の豪族である雍闓(ようがい)が反乱し、呉に永昌太守に任じられた。
永昌郡は道を塞がれ都との連絡も断ち切られたが、郡の功曹の呂凱(りょがい)と、府丞の王伉は官民を激励して統率し、雍闓に抵抗した。
雍闓は何度も降伏勧告したが、呂凱の威光と恩愛は郡内に聞こえ渡っており、人々は動揺しなかった。

諸葛亮が討伐に赴くと、雍闓は到着前に部下に殺された。
諸葛亮は「呂凱・王伉は絶遠の地において忠節を貫くこと10余年に渡り、雍闓らに圧力を掛けられても道義を守り相手にしなかった。永昌郡がかくも誠実で正直とは思いもしなかった」と称え、呂凱を雲南太守・陽遷亭侯に、王伉を永昌太守・亭侯に封じた。
しかし呂凱は蛮族に殺害された。

「蜀世譜」に曰く、呂凱の子孫は代々永昌太守を務め、晋代に李雄(りゆう)が反乱した時も、服従を拒否して固守した。王伉も正義を貫いた。(『呂凱伝』)

「演義」では立場が入れ替わり王伉は永昌太守として登場。呂凱はその参謀役で、諸葛亮の南蛮討伐軍にも加わり戦死もしないが、王伉にその後の出番はない。