王匡  義侠太守



王匡(おうきょう)字は公節(こうせつ)
兗州泰山郡の人(??~??)

後漢の臣。

「謝承の後漢書」に曰く。
若い頃から蔡邕(さいよう)と親交があった。

「英雄記」に曰く。
物欲がなく、施しを好んだため任侠をもって知られた。
大将軍の何進(かしん)に招かれ、徐州で強弩500を徴発したが、その間に何進が宦官に暗殺されたため、故郷へ帰った。
後に平民から河内太守に任命された。(『武帝紀』)

混乱に乗じて董卓が都の実権を握ると、王匡は泰山郡の兵を河陽津に駐屯させ、襲撃しようと図ったが、察知した董卓は密かに精鋭を背後に回し、王匡軍をほぼ壊滅させた。(『董卓伝』)

190年、袁紹を盟主に董卓追討軍が結成され、河内太守の王匡もそれに応じた。(『武帝紀』)

王匡は韓浩(かんこう)を従事に任命し、董卓と戦った。(『韓浩伝』)

王匡は河内郡の属県へ配下を送り、官民の罪を探らせ、金銭や穀物を没収して処罰し、従わないと一族皆殺しにし威厳を高めていた。
常林(じょうりん)の叔父が逮捕され、一族が恐慌をきたすと、常林は王匡と同郷の胡母彪(こぼひょう)を訪ね「河内郡は人材豊富で、もし勇武の才を持つ者が賊徒を討伐しようとすればそれに応じますが、恩徳がなければ滅亡が訪れるでしょう」と言い、叔父が拘留されていることを伝えた。胡母彪は王匡を叱責し、叔父は解放された。(『常林伝』)

董卓は胡母班(こぼはん)と呉脩(ごしゅう)に詔勅を持たせ、袁紹に服従を命じたが、袁紹は王匡に命じて彼らを殺させた。

「謝承の後漢書」に詳細が記される。
胡母班は王匡の妹婿だったため、王匡に袁紹を説得させようとしたが、捕らえられ投獄された。
胡母班は「董卓は天子の陰に隠れ討伐できません。私は董卓とは親族でもなく悪事に加担するはずもないのに、実の親族のあなたは董卓への怒りを私に向け殺そうとしています。結婚は幸福と災難の始まりだとはっきりしました」と王匡に手紙を送り、獄死した。王匡は胡母班の2人の子を抱きしめて泣いた。(『袁紹伝』)

「英雄記」に曰く。
董卓軍に敗れ、故郷へ帰り数千の兵を集め、陳留太守の張邈(ちょうばく)と合流するつもりだったが、胡母班の遺族が曹操の協力を得て王匡を殺害した。(『武帝紀』)

「演義」では虎牢関の戦いで一番乗りを果たしたが、配下の方悦(ほうえつ)を呂布に討たれた。