王朗  Mr.清廉潔白



王朗(おうろう)字は景興(けいこう)
徐州東海郡郯県の人(?~228)
「魏略」に曰く、はじめ王厳(おうげん)と名乗った。

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

魏の臣。

徐州出身の趙昱(ちょういく)・張昭(ちょうしょう)と並んで名声を馳せ、親しく交友した。
張昭と旧主の諱を避けることに関して議論を交わし、陳琳(ちんりん)らに称賛された。(『張昭伝』)

経書に通じたため郎中を経て甾丘県長に任じられた。(『王朗伝』)

当時、三署(五官中郎将ら)の郎から県長を選ぶならわしで、趙昱、劉繇(りゅうよう)、臧洪(ぞうこう)らとともに推挙された。(『臧洪伝』)

師と仰ぐ太尉の楊賜(ようし)が没すると、官を棄てて喪に服した。孝廉に推挙され、三公から招聘されたが応じなかったが、徐州刺史の陶謙(とうけん)に茂才に推挙され、治中となった。
趙昱とともに献帝に朝貢するよう勧め、趙昱が使者として赴き、王朗は会稽太守に任じられた。(『王朗伝』)

許靖(きょせい)は董卓の手を逃れるため、昔なじみの王朗や許貢(きょこう)のもとへ身を寄せた。
後に許靖が蜀に仕えてからも手紙を送り合い、友誼は厚かった。(『許靖伝』)

孫策が会稽郡に迫ると、配下の虞翻(ぐほん)は敵わないから逃げるよう勧めたが、王朗は漢の官吏は街を捨てられないと拒否し、敗れて海を渡って逃げた。さらに追撃を受けると降伏し、高名な儒学者の彼を孫策は問責しただけで赦した。
一族や旧知の者を集めて暮らし、その日の夜の見通しさえ立たないほど困窮したが、道義に基づき行動した。(『王朗伝』)

孫策と戦った時、王朗は川を盾にして善戦したが、孫策の叔父の孫静(そんせい)が背後に回る策を立て、敗北した。(『孫静伝』)

「虞翻伝」に詳細が記される。
孫策軍が迫った時、虞翻は父の喪に服していたが、喪服のまま駆けつけた。服喪中は役所に入れないため王朗が外へ出迎えようとすると、虞翻は喪服を脱ぎ捨てて中へ入った。
王朗が敗れると一緒に逃げ、受け入れを拒否する侯官県長を説き伏せた。落ち着くと王朗は母のいる会稽郡へ帰るよう勧め、帰郷した虞翻は孫策に招聘された。(『虞翻伝』)

王朗が東冶県へ逃げると、侯官県長の商升(しょうしょう)は孫策討伐の兵を挙げたが、韓晏(かんあん)に撃破された。(『賀斉伝』)

孫策が劉繇の遺体を引き取って手厚く葬り、遺族を援助すると、王朗はその徳義を称え、劉繇の子の劉基(りゅうき)を推挙した。(『劉繇伝』)

曹操に招かれ、長江や海を行き来して何年も掛けて到着し、諫議大夫・参司空軍事に任じられた。
216年、曹操が王位につくと軍祭酒のまま魏郡太守を兼任し、少府、奉常、大理と昇進して行った。大理として寛容に努め、罪に疑義があれば軽い罰を与え、鍾繇(しょうよう)とともに裁きの見事さを称えられた。(『王朗伝』)

曹操が肉刑(※身体切断等の刑)の復活を議論させると、鍾繇・陳羣(ちんぐん)は賛成したが、王朗ら多くの者は反対した。結論は保留された。(『陳羣伝』)

220年、曹丕が王位につくと御史大夫に上り、安陵亭侯に封じられた。民を育み刑罰を減らすよう上奏した。
同年、曹丕が帝位につくと司空に上り、楽平郷侯に進んだ。曹丕が狩猟を好み、日が暮れてから帰ると王朗は諫言したが、「戦闘訓練である」とごまかされた。(『王朗伝』)

曹丕は三公を務める鍾繇・華歆(かきん)・王朗を「この三公こそ一代の傑物だ。後の時代に後を継ぐのは難しいだろう」と称えた。(『鍾繇伝』)

魏では呉と連携して蜀を攻めるべきか議論され、王朗は「呉と蜀は互角で、呉が勝機を得るのを待ってから戦えば一度で片が付きます。呉が動かないのに魏が先に動く必要はなく、今は長雨が続き行軍すべきではない」と反対した。
223年、品行の優れた君子を推挙するよう詔勅が下ると、王朗は楊彪(ようひょう)を推挙し、病気と称して地位を譲った。
曹丕は楊彪を三公に次ぐ地位につけると、王朗へ「君は推挙も終えないうちに病気で官を辞した。賢人は得られず、君も失ってはたまらない」と言い、復職させた。
孫権が息子の孫登(そんとう)を(人質として)曹丕に近侍させると約束しながら、一向に出立させないため、曹丕は討伐の準備をさせた。王朗は取りやめるよう諫言したが、曹丕は進軍し、長江を前にして結局引き上げた。
領邑を分割し一子が列侯されたが、願い出て甥の王詳(おうしょう)を代わりに列侯させた。

226年、曹叡が帝位につくと蘭陵侯に進み、500戸を加増され1200戸となった。
甄姫の墓に詣でた時、生活に困窮する民を見て、宮殿造営に勤しむ曹叡を諌めた。司徒に転任した。(『王朗伝』)

同年、曹叡の母の甄姫に諡号が追贈され、王朗がその使者を務めた。(『文昭甄皇后伝』)

青州別駕の王基(おうき)を召し出したが、刺史の王淩(おうりょう)は断った。王朗は怒り青州を弾劾したが、それでも王淩は応じなかった。(『王基伝』)

太和年間(227~232)に鍾繇が再び肉刑の復活を唱えると、王朗は「残酷な刑罰を復活させれば敵国に喧伝され民心が離れる。髡刑(※髪剃)に処したり労役を倍にすればよい」と反対した。王朗の意見に賛成する者が多かったが、結論は保留された。(『鍾繇伝』)

曹叡の子が幼くして何人も亡くなると、王朗は心を痛め「布団が分厚く心地よすぎて、かえって強い身体に育てるには向いていないのではないか」と上奏し、曹叡は感謝した。

228年に没し、成侯と諡された。
「易」や「春秋」に注釈をつけ、上奏や議論は全て世に伝わった。
子の王粛(おうしゅく)が後を継いだ。(『王朗伝』)

243年、功臣の一人として曹操の霊廟前に祀られた。

245年、王朗の著した「易伝」が官吏登用の受験科目に採用された。(『斉王紀』)

孫娘にあたる王元姫は司馬昭に嫁ぎ、晋の初代皇帝である司馬炎を産み、王朗の血は晋の嫡流として残った。

陳寿は「文才学識が豊か」と称え、鍾繇・華歆とともに列伝し「まことにみな一時代の俊傑だった。魏が帝位についた時、彼らは最初に三公に上り立派なことである」と評し、子の王粛も「誠実にして博学で、よく父の業を受け継いだ」と評した。

「演義」では小物化&小悪党化が図られ、会稽太守の時には虞翻に「時代遅れ」と蔑まされ出奔された。
曹操に仕えた後も出番のたびにいまいちの才能を発揮し、曹丕の代には宮中に乗り込んで帝位の簒奪に協力。
蜀との戦いでは76歳の老体に鞭打って諸葛亮に論戦を挑むも、完敗して恥と怒りから悶死するというさんざんな扱いである。