王淩  賛否両論の男



王淩(おうりょう)字は彦雲(げんうん)
并州太原郡祁県の人(172~251)

若くして同郷の王昶(おうちょう)とともに名を知られ、年上の王淩が兄事された。(『王昶伝』)

192年、叔父の王允(おういん)が董卓残党の李傕(りかく)らに殺されると、兄の王晨(おうしん)とともに城壁を乗り越えて郷里へ逃げ帰った。
孝廉に推挙され、発干県長に任命され、中山太守に上り、治績を上げ曹操に丞相掾に招かれた。(『王淩伝』)

并州刺史の梁習(りょうしゅう)は、常林(じょうりん)・楊俊(ようしゅん)・王淩・王象(おうしょう)・荀緯(じゅんい)を推挙し、曹操はみな県長に任じた。(『常林伝』)

「魏略」に曰く。
県長の時、ある罪を得て髡刑(※髪剃)5年を言い渡され、道路掃除の労役に服していた。そこへ曹操が通りかかり、側近に素性を尋ねると王允の甥だと気づき、罪も大したことではないと解いてやり、驍騎主簿に選ばせた。(『王淩伝』)

「世語」に曰く、主簿の時、賈逵(かき)・楊脩(ようしゅう)と同僚だった。(『陳思王植伝』)

220年、曹丕が帝位につくと散騎常侍に、次いで兗州刺史となった。張遼とともに呉を攻め、呂範(りょはん)の船が突風で岸へ流れ着くと、迎撃し捕虜や船を奪った。宜城亭侯に封じられ、建武将軍を加えられ、青州刺史に転任した。
当時、北方の沿岸部は荒廃し法制度が整備されていなかったため、行政を広め教化を施し善政を敷いた。民は喜び称えても称えきれぬほどだった。(『王淩伝』)

225年、利成郡(利城郡)で蔡方(さいほう)が反乱し太守を殺すと、青州刺史の王淩らが討伐した。(『文帝紀』)

青州刺史の時、王基(おうき)を見出して別駕に任じた。後に司徒の王朗(おうろう)が王基を招いたが、王淩は断った。王朗は怒り青州を弾劾したが、それでも王淩は応じなかった。
王淩の統治は称賛を得たが、王基の補佐によるところも大きい。(『王基伝』)

228年、曹休(そうきゅう)が、呉の周魴(しゅうほう)の偽装投降に騙された。(※石亭の戦い)
曹休は伏兵によって包囲されたが、賈逵が救援し、王淩の奮戦により包囲を破り逃げ延びることができた。(『王淩伝』・『賈逵伝』・『周魴伝』)

揚州・豫州の刺史を歴任し、いずれも治績を上げた。(『王淩伝』)

241年、呉の孫布(そんふ)が揚州刺史の王淩へ降伏を願い出て、兵で出迎えてくれるよう頼んだ。
王淩は許可を求めたが、征東将軍の満寵(まんちょう)は罠だと考え反対した。王淩と満寵は以前から仲違いしており、満寵が老いと疲労で惑乱したと訴え、都へ召還させた。満寵は留守を務める配下に王淩へ兵を与えないよう命じた。
はたして王淩は出撃しようとしたが700の兵しか得られず、孫布に襲撃され半数以上が死傷した。
曹叡は満寵を引見し、異常がないと考え任地に戻した。満寵は都に留まりたいと重ねて訴えたが、認められなかった。(『満寵伝』)

一方で「呉書」には戦果が少なすぎて失敗と見なされたか「王淩は感づいて撤退した」と記される。(『呉主伝』)

豫州刺史の時には過去の賢人を表彰し、新たな人材を発掘した。旧友の司馬朗(しばろう)・賈逵がかつて兗州・豫州刺史を務めたため、その業績を受け継いだ。
240年、征東将軍・仮節都督揚州諸軍事となり、翌241年に呉の全琮(ぜんそう)を撃退した。(※芍陂の戦い)
南郷侯に進み、1350戸を与えられ、車騎将軍・儀同三司に上った。(『王淩伝』)

245年、呉の馬茂(ばぼう)が反乱未遂により殺された。
「呉歴」に曰く、馬茂は鍾離県長だったが王淩と仲違いし呉へ寝返った。(『呉主伝』)

「王沈の魏書」に曰く。
廬江太守の文欽(ぶんきん)を「貪欲残忍で国境を任せられない」と弾劾した。だが魏の実権を握る曹爽(そうそう)は文欽と同郷だったため、取り調べもせずに復職させた上に昇進させた。文欽はつけ上がりますます増長した。
ちなみに文欽は後に反乱すると、自分を正当化するため「王淩は司馬懿の専横を憎み挙兵しようとした」と述べている。(『毌丘倹伝』)

248年、任地で司空に任じられ、249年に司馬懿が曹爽を粛清すると太尉に転じ、節鉞(軍権)を与えられた。(『斉王紀』・『王淩伝』)

当時、甥の令孤愚(れいこぐ)が兗州刺史を務め、淮南地方をおじ甥が治めていた。二人は幼い曹芳では天子の重責を担えないと考え、廃立し曹彪(そうひょう)を即位させようと考えた。曹彪とも連絡を取り合ったが、子の王広(おうこう)は災難に遭うことを危惧した。
同年11月、令孤愚は病没したが、翌250年に王淩は天文を見て好機と考え、251年に呉が侵攻するとそれに乗じて反乱しようとしたが、出撃の許可は得られなかった。
配下の楊弘(ようこう)を派遣し、令孤愚の後任の兗州刺史の黄華(こうか)を仲間にしようとしたが、楊弘・黄華は司馬懿に密告した。
司馬懿は大軍で王淩のもとへ迫り、同時に赦免を伝え、王広からも父を説得させた。
観念した王淩は印綬や節鉞を返還し、自らを縛り一人で司馬懿を出迎えた。司馬懿は縄を解くと印綬や節鉞を返し、兵をつけて都へ送還させたが、王淩は道中で毒をあおぎ自害した。
曹彪は自害を命じられ、王広ら連座した者は三族皆殺しとなり、王淩・令孤愚の遺体は古例に従い棺を壊され、3日さらされた挙げ句に裸で土に埋められた。

「魏略」に曰く。
王淩が謝罪の手紙を送り司馬懿のもとへ出頭すると、司馬懿は船を止め遠くから警戒する様子を見せた。冷たくあしらわれたと思い「なぜ兵を引き連れてきたのだ」と問うと、司馬懿は「君は手紙に言う通りにするような男ではない。私は君を裏切っても国は裏切らない」と言った。その後、王淩は「80歳にして身も名も滅びるか」と言って自害したため、享年は80と思われる。

「晋紀」に曰く。
都に送還される途中、賈逵の祠があるのを見つけた。王淩は「賈逵よ、私は魏に忠誠な男です。あなたが神となったならご存知でしょう」と言った。(※その地で自害した)
同年8月、司馬懿は病にかかり、王淩と賈逵に祟られる夢を見て、病没した。

「魏氏春秋」に曰く。
王広と弟の王飛梟(おうひきゅう)・王金虎(おうきんこ)はみな文武に優れた。司馬懿がある時に蔣済(しょうせい)へ彼らについて尋ねると、「王淩は文武両道の当代に並ぶ者のない人物ですが、息子らはそれ以上です」と答えた。
蔣済は後に「私の言葉は彼ら一門を滅ぼすことになる」と悔やんだ。(『王淩伝』)

「世語」に曰く。
郭淮の妻は王淩の妹だった。妻も逮捕されると、配下や羌族、民衆はこぞって助命嘆願したが、郭淮は認めなかった。
しかし5人の子が揃って叩頭し血を流しながら訴えると、ようやく奪還を命じた。数千人が追い掛けて連れ戻し、郭淮は「妻を失えば5人の子も後を追います。そうなれば私も死にます。罪に問われるならば服します」と司馬懿へ申し出たが、赦免された。(『郭淮伝』)

諸葛誕は(反乱を企み処刑された)夏侯玄(かこうげん)と親しく、王淩・毌丘倹(かんきゅうけん)の反乱失敗を見て、次は自分の番だと疑心暗鬼になり、反乱を決意した。(『諸葛誕伝』)

265年、司馬炎が帝位につくと「王淩・鄧艾は逮捕を命じられるとおとなしく従った。生き延びることを願って悪事へ走る者とは比べられない。子孫は大赦したが、子孫がいなければ後継者を探し、祭祀を断絶させてはならない」と命じた。(『鄧艾伝』)

陳寿は「高い風格と志節を有した」と称えつつも諸葛誕・毌丘倹とともに列伝し「名声を得て栄誉ある地位を勝ち取ったが、みな大きな野心を抱き、災禍を考えなかった。判断力が狂っていたのではなかろうか」と評した。

王淩は忠臣か、それとも逆臣か。評価は二分されている。
「演義」には全く登場しない。