王沈  魏書を著す



王沈(おうしん)字は処道(しょどう)
并州太原郡晋陽県の人(??~266)

魏・晋の臣。

父の王機(おうき)は魏の東郡太守を務めたが王沈が若い頃に没し、従叔父の王昶(おうちょう)に養われ、継母とともに実の両親のように仕え孝行を称えられた。(『晋書 王沈伝』)

王昶は子や甥には名や字に謙虚・質実を意味するものを選んでやった。王沈もその一人である。(『王昶伝』)

書を好み文章を得意とし、大将軍の曹爽(そうそう)に招かれ掾となり、中書門下侍郎に移った。(『晋書 王沈伝』)

「王弼伝」に曰く。
正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、何晏(かあん)は王弼(おうひつ)を推薦したが、何晏と対立する丁謐(ていひつ)が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。
その際、王弼は時の権力者の曹爽に面会を願ったが、ただ道家の話をしただけで、曹爽を不快にさせた。王弼は道理をわきまえ名声を顧みなかったため出世コースから外され、間もなく王黎が亡くなった時も後任には王沈が任じられた。何晏は残念がったが、王弼は尚書郎になってから日も浅く、事務も得意ではないからと全く意に介さなかった。(『鍾会伝』)

249年、曹爽が誅殺されると旧臣だったため連座し罷免されたが、後に治書侍御史に復帰し、秘書監に移った。(『晋書 王沈伝』)

かつて羊祜(ようこ)は王沈とともに曹爽に招聘され、王沈も仕官を勧めたが「身を捧げて人に仕えることをそう軽々しくはできない」と断っていた。
曹爽が誅殺され罷免された王沈は「君に言われたことを覚えていたのだが」と悔やんだが、羊祜は「こうなるとは思わなかった」と誇らなかった。(『晋書 羊祜伝』)

正元年間(254~256)、散騎常侍・侍中に移り、著作(文書編纂)を司り荀顗(じゅんぎ)・阮籍(げんせき)とともに「魏書」を編纂した。しかし時勢に配慮し多くの記述をにごしたため陳寿に劣った。
曹髦は学問を好み王沈と裴秀(はいしゅう)をしばしば議論や宴席に招き、王沈を文籍先生と呼んだ。(『晋書 王沈伝』)

「晋諸公賛」に曰く、司馬望(しばぼう)・王沈・裴秀・鍾会がいつも招かれた。(『高貴郷公紀』)

260年、曹髦が司馬昭を誅殺しようとし王沈と王業(おうぎょう)に打ち明けると、二人はすぐさま司馬昭に密告し曹髦は殺された。その功績により安平侯に封じられ領邑2千戸を与えられたが、主君を裏切ったと世論に非難された。(『晋書 王沈伝』)

「世語」に曰く、王経(おうけい)も計画を聞いたが彼はまっとうな人間だったので注進せず、王沈・王業に頼んで司馬昭へ気持ちを伝えさせた。
「晋諸公賛」に曰く、王沈・王業は王経も誘ったが、王経は従わず「あなたたちは行きなさい」と言った。(『高貴郷公紀』)

「世語」に曰く、王業が司馬昭へ王経の気持ちを説明しなかったため処刑されたのである。(『夏侯玄伝』)

尚書に移り、監豫州諸軍事・奮武将軍・豫州刺史となり赴任した。
「古の聖賢が批判や世論を好んだのは、木こりや薪取りの言葉にも朝政の参考となるものがあるからだ。しかし赴任してから一度も私に逆らう言葉を聞かない。私の真心が通じず疑念を抱かせているのだろうか。賢者を探し佞臣を退け、役立つ提言をした者には穀物500石を与えよ。一片の真理があり刺史の為政や朝政を改める提言ならば1000石を与えよ。私が信じられないという意見ももっともだ」と布告した。
主簿の陳廞(ちんきん)・褚䂮(ちょりゃく)は「布告を拝読し感嘆しました。しかし日暮れまで勤めましたが提言はありませんでした。おそらく節度ある人士は褒賞に遠慮して言わず、強欲な者が利益のために言い出すだけでしょう。その不適切な提言を退ければ、遠くで話だけ聞いた者は布告が嘘だったと考えます。布告を取り下げるべきだと思います」と反対した。
王沈は「提言が無いわけにはいかない。直言は忠であり、州のために恩恵を施すのは仁、褒賞を辞退するのは廉である。これらは仁智の行いであり、提言をさせない理由にはならない」と言ったが褚䂮は「堯舜や周(※古の聖賢)に諫言が届いたのは、氷や炭が見ただけで冷たさ熱さがわかるように、君主の真心が表れていたからです。あなたが氷や炭のように本質として諫言を好むならば(何もせずとも)直言の臣が庭に詰めかけるでしょう。堯舜のような徳や周のような聡明さが無ければ、褒賞を設けても提言は届きません。褒賞はそもそも顕著な功績や勲功に与えられるもので、褒賞で提言を求めた前例はありません」と諫言した。
王沈は納得し布告を取り下げた。
善政を追求し、かつて豫州刺史として辣腕をふるった賈逵(かき)の法制や禁令を学び、良い施策を採り上げた。学問を奨励し、属する9郡の人士に教育が行き渡った。(『晋書 王沈伝』)

豫州刺史の王沈が呉への対策を問うと、魯郡主簿の唐彬(とうひん)は「今の魏には呉を併呑する勢いがある」と言い、王沈は称えた。さらに呉討伐に反対する者に唐彬に反論させ、全て屈服させた。唐彬は後に豫州府に招かれ主簿となり、別駕従事に上った。(『晋書 唐彬伝』)

征虜将軍・持節・都督江北諸軍事に転任した。
五等爵が設けられると博陵侯に移り、序列は国に次いだ。
263年、蜀討伐にあたり呉が援軍を送ると喧伝すると王沈が対処し、呉軍を撤退させた。鎮南将軍に転じた。
265年、司馬炎が王位につくと御史大夫・尚書令・給事中となった。名声高く、羊祜・荀勖(じゅんきょく)・裴秀(はいしゅう)・賈充(かじゅう)らはみな朝政を相談した。(『晋書 王沈伝』)

司馬炎が王位につくと裴秀・王沈・賈充はともに開府した。(『晋書 裴秀伝』)

司馬炎が帝位につくとそれを助けた功績から驃騎将軍・録尚書事に転じ、散騎常侍を加え、統城外諸軍事となった。博陵郡公に進んだが、固辞したため県公に留められ領邑1800戸となった。(『晋書 王沈伝』)

裴秀・王沈らが帝位につくことを勧めた。(『晋書 何曾伝』)

司馬炎は政務全般を委ねようとしたが266年に没した。元公と諡された。
翌267年、改めて功績を採り上げ司空を追贈され、郡公の待遇で葬られ、質素を重んじ家が貧しかったため屋敷を造られた。

子の王浚(おうしゅん)が後を継いだ。王浚の母の趙氏(ちょうし)は貧しい出自のため子として認知されなかったが、王沈が没した時に他に子が無かったため親族は王浚を後継ぎにした。
後に妻の荀氏(じゅんし)も没し、合葬しようとしたが棺が壊れていたため、宮殿の棺が贈られた。
咸寧年間(275~280)、郡公を追贈された。(『晋書 王沈伝』)

270年、司馬炎は詔勅で「王沈・羊祜は文武両道で慎み深く私は大変気に入っていた」と振り返った。(『晋書 鄭沖伝』)

「王沈魏書」は裴松之も大いに注に用いている。
「演義」では曹髦の挙兵を司馬昭に注進する役目しか描かれない。