王濬  三国志に終止符を打った男



王濬(おうしゅん)字は士治(しち)
荊州弘農郡湖県の人(206~285)

魏・晋の臣。

家は2千石(太守クラス)を代々輩出し、王濬は博覧強記で容貌も優れたが、名声や品行に欠け評価されなかった。後年にようやく大志を抱き節操を改めた。かつて家を建てた時に門前の道を広くし、長槍や大旗を持った兵も通れるようにしたいと言うと(達成できない)と笑われたが、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とうそぶいた。

やがて郡・州に招かれ河東郡の従事となると、管轄の太守や県長らで後ろ暗いところのある者は、弾劾を恐れて辞任していった。
司隷校尉の徐邈(じょばく)の娘は才知があり、婿の候補を集め観察させると、娘は王濬を選んだ。
征南将軍の羊祜(ようこ)の参軍事となり重用されると、甥の羊暨(ようき)は「王濬は志が大きすぎ、奢侈を好み節制せず信任できない。何かにかこつけて罪に問うべきだ」と諫言したが、羊祜は「王濬の才能は高く、その欲望を叶えるよう仕向ければ有用だ」と取り合わず、車騎将軍に上ると従事中郎に取り立て、その人事を称賛された。

益州巴郡太守に赴任した時、当地は呉との国境で労役が重く、民は男子が生まれると殺してしまっていた。王濬はそれを禁止するとともに減税し、子育て支援の政策を作り、数千人の男子を救った。広漢太守に転じても支持を得た。
ある時、夢で梁の上に3本の刀があり、1本増えるのを見た。李毅(りき)は「3本の刀は州を意味し、それが増す(益)のは益州刺史になる予言です」と読み解いた。はたして益州刺史の皇甫晏(こうほあん)が張弘(ちょうこう)に殺され、その後任となり張弘を討伐し、関内侯に封じられた。
異民族を分け隔てなく遇したため、多くの者が帰服した。やがて右衛将軍・大司農として都に上ったが、羊祜は彼の軍事の才を重んじ、益州刺史に復帰させた。(『晋書 王濬伝』)

羊祜は長江の上流から呉を攻めるのが肝要だと考えていた。当時、呉で「阿童よ阿童、刀をくわえて長江に浮かんで渡る。岸上の獣を畏れることなく、ただ水中の龍を畏れるのみ」という予言めいた童謡が流行っていた。大司農に招かれた王濬の幼名が「阿童」だと知った羊祜は彼こそが適任者だと考え、監益州諸軍事・龍驤将軍として益州に赴任させ、密かに戦艦を建造するよう命じた。(『晋書 羊祜伝』)

司馬炎は呉の討伐を考え戦艦を建造させ、王濬は幾艘もの大船を連結し、城壁や高楼が築かれ2千人が乗れる前代未聞の巨大戦艦をこしらえた。そのため木屑が大量に長江へ流れ、呉の建平太守の吾彦(ごげん)は戦艦を建造していると気づき、建平郡に兵を増員し侵攻に備えるよう上奏したが、孫晧は却下した。(『晋書 王濬伝』)

要請を却下された吾彦は勝手に長江へ鉄鎖を張り巡らせ侵攻に備えた。後の晋の侵攻にも耐え抜き、晋軍は敬意をもって彼の軍を避けた。孫晧の降伏後にようやく吾彦も降った。(『晋書 吾彦伝』)

王濬は龍驤将軍・監梁益諸軍事となり、「呉は孫晧の悪政により人心が離れていますが、もし孫晧が倒れ賢者が即位すれば立ち直ります。戦艦を建造し7年が経ち老朽化が進んでいます。私も70歳を超え寿命が近づいています。この3点のうち1点が崩れれば呉の討伐は困難になります」と上奏した。司馬炎も同意したが賈充(かじゅう)・荀勗(じゅんきょく)は強硬に反対し、張華(ちょうか)だけが賛成した。だが羊祜の後任として荊州を治める杜預(とよ)も呉討伐を上奏すると、ついに侵攻を決断した。

280年、王濬は益州から呉へ進撃した。巴郡太守の時に命を救った男子らは成人し、父母から命を救われた恩返しをするよう励まされ、奮って従軍した。巴東監軍の唐彬(とうひん)とともに丹楊城を攻め、守将の盛紀(せいき)を捕らえた。
呉は長江に鉄鎖を張り巡らせ、水中に鉄の錐を設置し罠を張っていたが、亡き羊祜は呉の間諜を捕らえそれを知ると対策を教えており、王濬は鉄鎖を松明で焼き、鉄の錐を筏で排除した。敵将の留憲(りゅうけん)、成據(せいきょ)、虞忠(ぐちゅう)を次々と捕虜にし、荊門城・夷道城の二城を落とし、監軍の陸晏(りくあん)を捕らえた。さらに陸景(りくけい)、施洪(しこう)も捕らえ、平東将軍・仮節・都督益梁諸軍事に昇進した。
進むところ敵無く、ほとんどが戦わずして降伏し、夏口・武昌も抵抗なく陥落させた。張象(ちょうしょう)は水軍1万を率いていたが王濬軍の旗を見るや降伏した。王濬の旗が長江を埋め尽くし、孫晧は戦意喪失して薛瑩(せつえい)・胡沖(こちゅう)に命じ降伏文書を届けさせた。
王濬は石頭城に入ると、自らを縄で縛った孫晧を解放し、略奪を禁じた。(『晋書 王濬伝』)

274年、陸抗(りくこう)は臨終に際し「西陵(西方)は土地は千里に及び敵と対陣しているのが4ヶ所、外に晋、内に異民族を抱えながら兵は数万に過ぎず、しかも疲弊しきっています。変事が起こったら対応できません。ここに意欲ある志願兵を8万増員し、無駄な事業をやめ、信賞必罰を明らかにすれば韓信・白起が蘇ったとしても恐れるに足りませんが、改革しないのなら深く憂慮します」と言い遺していたがその通りになったのである。(『陸遜伝』)

呉の孫歆(そんきん)は王濬に大敗し、さらに陣中に侵入した杜預の刺客によって捕らえられた。王濬は孫歆を討ち取ったと報告していたが、都へ孫歆が生きたまま護送されてきたため笑い物となった。(『晋書 杜預伝』)

はじめ王濬は建平郡まで杜預の指揮下にあり、(丹陽郡)秣陵県へ進んだら王渾(おうこん)の指揮下に入る予定だった。だが杜預は「建平郡を落とせたら王濬の勢いは強くなり、その流れに任せるべきだ」と言い、王濬が建平郡を落とし西陵郡まで進むと、そのまま(王渾の指揮下に入らず)進撃するよう命じた。
王渾は秣陵県に至った王濬に予定通り合流するよう命じたが、王濬は「追い風で船を止められません」と言い呉の都へ向かった。王渾は呉の主力と戦い、丞相の張悌(ちょうてい)を討ち取っても情勢をうかがい進軍を止めていたが、その間に王濬が孫晧を降伏させたことを激しく恨み、命令違反を訴えた。王濬は杜預に進撃を命じられた書状を反証に出したが、司馬炎も王渾の訴えを認め叱責した。
王濬が「賈充の指揮下に入るよう命じられたが、王渾の指揮下に入れとは書いていない。王渾の命令書が届いた時にはもう孫晧は降伏していた」と時系列を細かく整理し反論すると、王渾は「王濬は呉の宝物を略奪した」と告発し、王濬も「王渾は戦果を水増しした」とやり返し泥仕合となった。
司馬炎は「王濬の言う通り命令書が着くのが遅れたが、それを確認したらすぐ上奏すべきだった。しかし呉討伐の大功と比べれば些細なことだ」と裁定し、輔国大将軍・歩兵校尉に任じ、様々な特権を与えた。爵位は襄陽県侯に進み、領邑は1万戸、子の王彝(おうい)も列侯された。(『晋書 王濬伝』)

王渾は子の王済(おうせい)ともども激しく非難し続けたため名声を損ねた。(『晋書 王渾伝』)

王濬は功績を誇るとともに王渾らの弾劾に怒り、司馬炎に謁見するたびそれを訴えた。事実を捻じ曲げられたと憤慨し、挨拶もせず退去することもあったが、司馬炎は大目に見てやった。
一族の范通(はんつう)が謙虚に努めるようたしなめると、王濬は「鄧艾が蜀を降伏させて間もなく誅殺されたのを見て、功績を言わずにはいられず、事実を胸の中にしまっておくこともできないのだ。これは私の度量が狭いためだ」と言った。
秦秀(しんしゅう)、孟康(もうこう)、李密(りみつ)らは呉討伐の功績に対し報奨が足りないと訴え、鎮軍大将軍・散騎常侍・後軍将軍に昇進させた。王渾との確執は収まらず、面会する際には厳重に衛兵を配備させた。
晩年は功績を誇りもはや品行を顧みず、豪華な食事や衣服で奢侈にふけり、推挙するのはかつての任地の益州の人々ばかりだった。散騎常侍・後軍将軍のまま撫軍大将軍・開府・儀同三司・特進に上り、285年に没した。享年80。
武侯と諡され、葬られた柏谷山には大々的に墓地が築かれた。子の王矩(おうく)が後を継ぎ、孫の王粹(おうすい)は後主をめとった。
後に2人の孫は窮乏し、東晋の桓温(かんおん)は王濬の功績を採り上げ登用するよう勧めたが却下された。(『晋書 王濬伝』)

「演義」でも同様に呉討伐で活躍した。