王忠  人を食った男



王忠(おうちゅう)字は不明
雍州扶風郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
若い頃に亭長を務めた。三輔(首都周辺)が動乱に陥った時、飢えて人肉を食べた。仲間とともに南下し、荊州に勢力を築いていた婁圭(ろうけい)に招かれたが、それを拒否して攻撃し、千人ほど兵を奪い曹操に降った。
中郎将に任じられ従軍した。曹丕は墓場から髑髏を取ってこさせると王忠の馬の鞍に結びつけ、人食したことをからかった。

199年、劉備は曹操の命を受けて袁術を撃破すると、徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺し独立した。
劉岱(りゅうたい)・王忠が攻撃したが敗北した。
「献帝春秋」に曰く、劉備は「お前達が百人来ても何もできない。曹操が自身で来るならわからないが」とうそぶいた。

翌200年、曹操は自ら攻撃し劉備は大敗した。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に揚武将軍都亭侯として連名した。(『武帝紀』)

「呉質別伝」に曰く。
224年、呉質(ごしつ)は酒宴を開くと、太っている曹真(そうしん)と痩せている朱鑠(しゅしゃく)をからかい、余興で役者にいじらせた。曹真が「あなたは私を部下の一隊長扱いするつもりか」と激怒すると、曹洪(そうこう)と軽車将軍の王忠は「曹真が太っていることを認めさせたいなら、呉質は自分が痩せていると認めるべきだ」と(下手に)たしなめたため、曹真はいよいよ怒りを増し、朱鑠も激昂し怒鳴り合いとなった。(『王粲伝』)

「演義」では劉備に敗北した場面にだけ登場。
劉岱とともに捕らえられるが、劉備は二人を厚遇したうえに送り返し、感激した二人は劉備を褒めそやしたため激怒した曹操にあやうく殺されかけた。

「横山三国志」では関羽・張飛を恐れてなかなか進撃できず、曹操に催促されてしかたなくクジ引きで先手を決める場面がコミカルに描かれた。