王戎  竹林の七賢・とらえどころのない男



王戎(おうじゅう)字は濬沖(しゅんちゅう)
徐州瑯邪郡臨沂県の人(234~305)

魏・晋の臣。
いわゆる竹林の七賢の一人。

祖父の王雄(おうゆう)は幽州刺史、父の王渾(おうこん ※呉討伐で活躍したのとは別人)は涼州刺史まで上った。
幼い頃から聡明でひときわ秀麗な容姿だった。太陽を見ても目がくらまず、裴楷(はいかい)は「王戎の眼は光り輝き、まるで洞穴で雷が光っているようだ」と評した。
6~7歳の時に虎の見物に行き、囲いの中から虎が吠えると人々は逃げ出したが、王戎は微動だにせず顔色を変えなかった。その様子を見た曹叡は特異な子だと評した。
またある時、友人と遊んでいるとスモモの木を見つけ、友人はこぞって採りに行ったが王戎は「道端に生えているのに採られず実が多いから絶対に不味いよ」と言い、食べてみるとその通りだった。

後に竹林の七賢の筆頭格とされる阮籍(げんせき)は父の王渾と友人で、当時15歳の王戎より20歳年上だったが、王戎とも友情を結んだ。王渾を訪ねると短時間で席を立ったが、帰りに王戎の部屋へ寄って長時間話し込み「王戎は惚れ惚れするほどすっきりしている。王渾とは格が違う。王戎と話すほうが良い」と言った。
王渾が涼州刺史に在任中に没すると数百万銭の香典が集まったが、王戎はそれを断り名を上げた。(『晋書 王戎伝』)

「世語」に曰く、荀彧の孫の荀寓(じゅんぐう)は若い頃から裴楷・王戎・杜黙(ともく)らと都で名を馳せた。(『荀彧伝』)

「晋諸公賛」に曰く、鍾会が司馬昭へ「裴楷は清廉で諸事に通じ、王戎は淡白で要を得ています」と推薦しともに掾となった。(『裴潜伝』)

小柄だが身なりや所作は自然体で、礼にとらわれず威厳を整えず、議論が得意で話の核心を見抜くのに長けた。
ある時、朝臣が集まって宴会を開くと、王済(おうせい)は「張華(ちょうか)が「史記」と「漢書」の立派な議論をし、裴頠(はいき)が過去の賢人たちの言行をとうとうと論じた。王戎は張良と季札について論じ、超越的で深遠な内容だった」と振り返った。

阮籍、兗州刺史の劉昶(りゅうちょう)と酒を飲んでいた時、阮籍は酒が少ないからと一杯も分けなかったが、劉昶は全く不満げな様子を見せなかった。王戎はその態度に感心しどういう人物なのか尋ねると、阮籍は「劉昶より優れた者なら一緒に飲むべきで、劣る者ならやはり飲まない理由はない。劉昶だけが一緒に飲まずに済むのだ」と言った。(『晋書 王戎伝』)

劉昶は身分の低い者とも酒盛りするためそれを咎められると「私より優れた者なら一緒に飲むべきで、劣る者ならやはり飲まない理由はない。同等ならばもちろん飲むべきだ」と答えた。(※阮籍はこれをもじったのだろう)(『世説新語』)

王戎は竹林で阮籍らとよく遊んだが、ある日の集会に遅刻した。阮籍が「俗物が来たからごきげんだったのに水を差された」とからかうと、王戎は笑って「あなたがたのご機嫌はこの程度で水を差されるものですか」と言い返した。

263年、鍾会は蜀征伐に向かう前に王戎を訪ね助言を求めた。王戎は故事を引き「事を成就させるのが難しいのではなく、成就してもそれを誇らず見返りを求めないのが難しい」と言った。
鍾会は蜀を滅亡させたが反乱し命を落とした。人々は王戎の言葉は理にかなっていたと評した。(『晋書 王戎伝』)

268年、族祖父の王祥(おうしょう)が没すると、弔問客は朝廷の賢者か、親しくしていた下役の者だけで、(名利を求める)他人はいなかった。王戎はそれを見て「清廉なることこの上ない。王祥はかつて名声は低かったが、言葉は理にかない清く幽遠だった。まさに徳が言葉を覆い隠していたのだ」と讃えた。(『晋書 王祥伝』)

羊祜(ようこ)は私心がなく媚びへつらいを憎んだ。従甥の王衍(おうえん)が(※免職された父を弁護するよう)依頼しその弁舌は鋭く聡明だったが、羊祜は聞き入れず「王衍は素晴らしい評判を上げ高位につくだろうが、風俗を乱し教化を損なうのも必ず彼だろう」と言った。
272年、歩闡(ほせん)の反乱討伐の際に、王戎は軍法を犯し羊祜に処刑されかけた。王衍・王戎は事あるごとに羊祜を誹謗するようになり、人々は「王衍・王戎が権勢を握り、羊祜は徳を得られない」と言った。(『晋書 羊祜伝』)

父の爵位を継ぎ、相国掾に召され、吏部郎、黄門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史を歴任した。
配下に自分の家を整備させた罪で免職されかけたが罰金で許された。
豫州刺史に移り、建威将軍を加えられ、279年からの呉征伐に従軍した。羅尚(らしょう)、劉喬(りゅうきょう)に先鋒を任せて武昌を攻め、呉の楊雍(ようよう)、孫述(そんじゅつ)、江夏太守の劉朗(りゅうろう)を降伏させた。長江に達すると孟泰(もうたい)が二県を率いて降った。
280年、呉は滅亡し、武功により爵位は安豊県侯に進み、領邑6千戸に加増され絹6千匹を賜った。
呉の民を慰撫し威厳と恩恵あり、孫晧に排斥されていた呉の旧臣の石偉(せきい)を推挙し議郎として2千石を支給させ、荊州の人々は喜んで従うようになった。(『晋書 王戎伝』)

「楚国先賢伝」に曰く。
281年、建威将軍の王戎は石偉を推挙したが、石偉は精神に異常をきたし盲目になったと偽り、爵位を断った。(『孫休伝』)

都に戻り侍中となったが、南郡太守の劉肇(りゅうちょう)に賄賂として布を贈られ弾劾された。王戎は賄賂と気づいて布を放置していたため罪には問われなかったが、問題視された。司馬炎は「王戎は欲に目がくらんだのではなく、劉肇に苦言を呈したくなかったから放置したのだ」とかばったが、清廉な人々からは軽蔑され、名声を落とした。
政治の優れた才能は無かったが職務はそつなくこなした。光禄勲、吏部尚書に移ったが、母が没し喪に服した。礼にとらわれず酒を飲み肉を食い囲碁を観戦したが、杖を突かねば立ち上がれないほど痩せ衰えた。娘婿の裴頠は「悲しみが人の命を傷つけるなら、王戎はその傷で命を落としてしまい、礼に背いたと批判される」と危惧した。
当時、和嶠(かきょう)も父の喪に服していたが礼にかなった作法で、やつれてはいたが王戎ほどではなかった。
司馬炎が和嶠を心配すると劉毅(りゅうき)は「和嶠は命を損なわない生孝ですが、王戎は命を落とす死孝です。心配すべきは王戎です」と言い、司馬炎はあわてて医者を送り命を取りとめさせた。(『晋書 王戎伝』)

283年、司馬攸(しばゆう)が兄の司馬炎の不興を買い都を放逐されそうになると、司馬炎の姉婿の甄悳(しんとく)や、娘婿の王済は妻にその姉妹とともに泣きながら反対させた。司馬炎は「司馬攸とのことは朕の家庭の事情だ。姉や娘を差し向け、葬式でもないのに哭礼させるとは何事だ」と侍中の王戎へ怒り、甄悳・王済を左遷させた。(『晋書 王渾伝』)

裴楷の子の裴瓚(はいさん)は容貌に優れ、王戎の子の王綏(おうすい)はいつも彼について回った。王戎が「お前が裴瓚を訪ねてばかりで、裴瓚がお前のもとへ出向いてこないのはなぜだ」と問うと、王綏は「私は彼(の才)を見抜いていますが、彼は私を見抜いていないのです」と答えた。(『晋書 裴秀伝』)

司馬炎が没し楊駿(ようしゅん)が実権を握ると太子太傅に任じられた。
291年、楊駿が誅殺されると司馬繇(しばよう)が独断で刑罰や論功行賞を行い、人々を畏怖させた。王戎は「大きな事件があった後は権勢から身を遠ざけるべきです」と忠告したが、司馬繇は聞き入れず、後に失脚した。
中書令に転じ、光禄大夫を加えられ、さらに尚書左僕射に移り、領吏部となった。(『晋書 王戎伝』)

司馬瑋(しばい)が誅殺されると裴楷・張華・王戎が政務に携わった。(『晋書 裴秀伝』)

「世語」に曰く、鄧艾の孫の鄧千秋(とうせんしゅう)は人望があり、光禄大夫の王戎に召されて掾となった。(『鄧艾伝』)

初めて甲午制を定め、中央官僚はまず地方官として実績を上げるよう求められた。傅咸(ふかん)が故事を引き「地方官を3年ごとに査定すべきなのに王戎は1年未満で都に引き上げている」と弾劾したが、王戎は外戚の賈氏や郭氏と縁戚だったため罪に問われなかった。
ついに司徒に上ったが皇帝の権威が崩壊しつつあったため、皇后の賈南風(かなんぷう)らに迎合した。太子の司馬遹(しばいつ)が廃立された時も一言も諌めなかった。
時勢に応じて身を処すばかりで、物怖じせず直言するような節義はなく、人材登用も虚名の人物を退けず、才能は見ずにただ名家の子弟を推挙するだけだった。司徒になっても仕事は部下に丸投げで、サボって小さな馬に乗り官舎を抜け出しても、誰もそれが王戎だと気づかなかった。
蓄財を好み裕福で、天下のいたる所に田園や水田があった。自ら計算機を使って昼夜を問わず財産を数え、まるで困窮しているかのように金を求めた。しかも吝嗇で衣食にすら金をかけず、娘が裴頠に嫁いだ時に数万銭を貸し与え、娘が帰省してもにこりともせず、気づいて返済されるとようやく笑顔を見せた。結婚する従子に衣服を贈ったが、婚礼を終えると代金を請求した。家にスモモの木があり実を販売していたが、種を育てられないようにあらかじめ錐でくり抜いていた。人々は吝嗇すぎてもはやどうしようもない病気だと批判した。

官吏の人材登用は機械的だったが身近な人物の才能を見抜くのは得意で、竹林の七賢の山濤(さんとう)を「加工前の玉や金だ。人々は宝物だとありがたがるが、どんな加工品になるかはわかっていない」と評した。
従弟の王衍を「すらっとした出で立ちで、玉で造られた樹木のようだ。俗世におのずとそびえ立つ標識となるだろう」と言い、他にも裴頠を「長所を活かすのが下手」、荀勗(じゅんきょく)を「短所を活かすのが上手」、陳道寧(ちんどうねい)を「長い竹竿を何本も束ねたように頑健」と評し、いずれも的確だった。
族弟の王敦(おうとん)は高い名声を博していたが王戎は彼を嫌い、訪問されても仮病で会わなかったが、後に王敦は反乱した。
孫秀(そんしゅう)がまだ琅邪郡の属吏だった頃、評価を要請したが王衍は却下した。だが王戎は評価するよう勧めてやり、後に孫秀が権勢を得ると恨みある人物をことごとく誅殺したが、王戎・王衍は無事だった。

300年、司馬倫(しばりん)が賈南風を殺し実権を奪うと、裴頠が誅殺され、岳父の王戎も連座で免職された。
司馬冏(しばけい)が挙兵すると司馬倫の腹心の孫秀は王戎を拘束したが、司馬倫の子は登用しようとした。しかし王繇(おうよう)が「王戎は嘘や欺きが多く、ころころ心変わりする打算的な人間です。年少の方には扱えません」と反対し取りやめられた。

301年、司馬倫が討たれ司馬衷が復位すると王戎も尚書令として復帰した。
司馬顒(しばぎょう)が司馬穎(しばえい)とともに司馬冏の誅殺を企むと、司馬冏は王戎に善後策を尋ねた。
王戎は「あなたは司馬倫を討つという天地開闢以来に並ぶ者のない功業を立てましたが、論功行賞に失敗し人々の恨みを買いました。司馬顒・司馬穎の兵は百万を数え勝ち目はありません。官職を辞して家に帰れば王位は失わないでしょう」と降伏を勧めた。居合わせた葛旟(かつよ)は「漢・魏の時代から家に戻った王公が妻子を守れた例があるものか。こんな意見を出す者は斬れ」と激怒し、騒然となった。王戎は便所に行き薬の発作で落ちたと偽って逃亡した。

その後、司馬衷に従い司馬穎の討伐に向かったが大敗した。洛陽を逐われて長安へ遷都し、王戎はいつも刀を手にし警戒こそしていたが、恐怖した様子はなく普段どおりに談笑していた。
305年、72歳で没し「元」と諡された。

ある時、黄公(こうこう ※名ではなく黄オヤジという意味)の飲み屋に通りかかると「昔は嵆康(けいこう)や阮籍とこの店で痛飲し、竹林の集まりの末席に座らせてもらった。嵆康・阮籍が亡くなると私はすぐ世俗に拘束されてしまった。あの頃と同じようにこの店を見ても、まるで山河に隔てられているように遠く感じる」と述懐した。

子の王万(おうまん)は高い名声を博していたが極めて肥満で、王戎はぬかを食わせて痩せさせようとしたがますます太り、19歳で先立たれた。
庶子の王興(おうきょう)はかわいがられず、従弟の王愔(おうせき)の子が後を継いだ。(『晋書 王戎伝』)