于糜  決まり手は馬上スリーパー



于糜(うび)字は不明
出身地不明(??~??)

揚州刺史の劉繇(りゅうよう)の臣。

張英(ちょうえい)、樊能(はんのう)とともに守備を固め、袁術軍の呉景(ごけい)・孫賁(そんふん)の侵攻を数年にわたり防いだ。

「江表伝」に曰く。
195年、孫策は劉繇を撃破し牛渚を陥落させ兵糧と武器を全て奪った。
孫策が笮融(さくゆう)を攻撃すると、于糜はその隙に樊能とともに牛渚を奪回したが、孫策はすぐさま兵を返して撃破し、1万人の捕虜を得た。(『孫策伝』)

徐琨(じょこん)・程普(ていふ)・呂範(りょはん)らがこの戦で活躍した。(『孫権徐夫人伝』・『程普伝』・『呂範伝』)

于糜、樊能、張英は揃って姿を消しており、戦死したと思われる。

「演義」では干麋(かんび)と姓を誤記される。
孫策に一騎打ちを挑むも、3合もたずに首をつかまれ生け捕りにされた。
樊能は救出を試みたが、孫策の一喝に驚いて落馬し、打ち所が悪くて死んだ。
孫策は悠々と自陣に戻ったが、小脇に抱えられていた于糜は孫策の驚異的な腕力によりすでに窒息死していた。

「吉川三国志」でも干麋の名で登場。「演義」を踏襲しただけなのにwikiでは吉川の誤記と書かれてしまっている。
孫策に捕まり、きつく絞め上げられて目玉が飛び出し死亡。死体をぶつけられて樊能は落馬し、干麋はもう死んでるのにさらに槍で突き刺された。
「横山三国志」には登場しない。