于毒  黒山賊のポイズン



于毒(うどく)字は不明
出身地不明(??~193)

黒山賊の頭目。

「九州春秋」に曰く、184年の黄巾の乱に乗じて各地で賊が決起した。その中に于毒の名も見える。(『張燕伝』)

191年、眭固(すいこ)・白繞(はくじょう)とともに十数万の兵を率い魏郡を攻略した。
東郡太守の王肱(おうこう)も敗れたが、曹操が攻撃して打ち破り、袁紹は曹操を東郡太守に任じさせた。

192年、曹操が頓丘に布陣すると、于毒らはその隙に東郡の政庁がある東武揚を攻めた。だが曹操は裏をかいて黒山を襲撃し、泡を食って戻ってきた于毒らを待ち伏せし大破した。(『武帝紀』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、于毒らによって鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)は善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を包囲し討ち取った。(『袁紹伝』)

黒山賊の頭目は身体的特徴などを異名にしており、于毒も毒の武器を愛用していたとか毒にまつわる逸話があるかもしれず、また于羝根(うていこん)という頭目がおり親族の可能性がある。