于禁  晩節を汚す

 

于禁(うきん)字は文則(ぶんそく)
兗州泰山郡鉅平県の人(?~221?)

魏の臣。

184年、黄巾の乱が起こると同郷の鮑信(ほうしん)に従い戦った。
192年、(鮑信が戦死し)兗州刺史となった曹操に仕え、王朗(おうろう ※有名な方とは別人)に大将軍の資質があると推挙され、曹操は引見すると軍司馬に任じた。徐州の広威を陥落させ、陥陣都尉となった。
濮陽での呂布との戦いでは別軍を率い2陣営を撃破し、高雅(こうが ※高順と同一人物とも)も破った。
張超(ちょうちょう)の包囲戦などで攻撃した陣営を全て落とし、夜襲を仕掛けてきた黄巾賊の劉辟(りゅうへき)・黄邵(こうしょう)を返り討ちにし黄邵の首を挙げ、軍勢を全て降伏させ、平虜校尉に昇進した。
袁術との戦いでは橋蕤(きょうずい)ら4将を斬り、宛城の張繡(ちょうしゅう)を降伏させた。張繡が反乱し曹操軍が散り散りになった時、于禁だけが数百人を率い戦いながら撤退し、死傷者は出たが誰も離脱しなかった。そこへ曹操の厚遇を傘に着た青州兵に略奪されたという兵が現れ、于禁は激怒し青州兵を討伐した。青州兵は曹操に被害を訴え、部下は于禁へすぐ釈明するよう勧めたが、「敵軍が背後に迫っているのだからまずそれに対処すべきだ。それに公(曹操)は聡明だからでたらめな訴えになど惑わされない」と意に介さず、塹壕を掘り陣営を固めた。それらを終えてから曹操に会うと、「この危急の事態に将軍(于禁)は混乱にありながら乱れず防備まで固めた。不動の節義を備え、古代の名将でもこれ以上ではないだろう」と絶賛され、益寿亭侯に封じられた。
張繡への反撃、呂布の捕縛、眭固(すいこ)の討伐にも功績があった。

200年、袁紹との戦いでは先陣を引き受け、2千人を率いて延津を守り、本隊の官渡の渡河を助けた。
徐州で劉備が蜂起すると曹操は自ら討伐へ向かい、于禁はその間、袁紹の攻撃を防いだ。楽進(がくしん)とともに5千の兵で西南へ向かい、30以上の陣営を焼き払い、数千の首級と数千の捕虜を得て、何茂(かぼう)・王摩(おうま)ら20人以上の将を降伏させた。裨将軍に上り、袁紹軍の矢の雨にもひるまず士気を上げ、勝利すると偏将軍に昇進した。
何度も反乱した昌豨(しょうき)は旧知の于禁を頼り降伏したが、「包囲された後に降伏した者は許さない軍法がある。旧友だからと見逃したら節義を失ってしまう」と于禁は泣きながら処刑した。曹操は「昌豨が私ではなく于禁を頼ったのは運命だろう」と感嘆し、いよいよ于禁を重んじた。
(※裴松之は「軍法には背かなかったが、曹操に判断を仰ぐことはできた。旧友のため万が一の幸運を期待せず殺した于禁が、散々な末路を迎え悪い諡号を得たのも当然である」と非難する)(『于禁伝』)

于禁は昌豨を攻略できず、夏侯淵が援軍に派遣され大勝し降伏させた。(『夏侯淵伝』)

206年、曹操は献帝への上奏で楽進・于禁・張遼を讃え、于禁は虎威将軍に取り立てられた。(『楽進伝』)

梅成(ばいせい)・陳蘭(ちんらん)が反乱し、于禁・張遼らが討伐した。梅成はすぐ于禁に降伏し、于禁が帰還すると背いて陳蘭と合流した。張遼軍の兵糧は少なかったが、于禁が兵站を担当して兵糧を途切れさせず、張遼は梅成・陳蘭を討ち取った。
于禁はこの功により領邑200戸を加増され1200戸となった。(『于禁伝』・『張遼伝』)

当時、于禁・張遼・楽進・張郃・徐晃が並び称され、代わる代わる先鋒や殿軍を務めた。于禁は厳格に軍を統治し、戦利品を得ても略奪せず、それを評価され手厚く賞賜を与えられた。だが法を厳守したため兵や民の心はつかめなかった。
曹操はかねてから朱霊(しゅれい)を恨み、ついに兵を没収しようとし、威厳あり恐れられている于禁に命令書を届けさせた。朱霊や配下はおとなしく辞令を受け、于禁の指揮下に入った。
左将軍に上り、節鉞を与えられ、領地から500戸を分割し一子が列侯された。(『于禁伝』)

曹操は蔣済(しょうせい)を揚州刺史の別駕に任じ「君がいればなんの心配もいらない」と辞令を与えた。後に蔣済が謀叛を企んだと誣告されると、曹操は左将軍の于禁と封仁(ほうじん)にその辞令を見せ「そんなわけがない。事実なら私に人を見る目が無いことになる。これは愚民がでたらめを言っているだけだ」と断じ、すぐに釈放させた。(『蔣済伝』)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)が客将の劉備を北上させると、夏侯惇・李典(りてん)・于禁が迎撃した。劉備は撤退し、夏侯惇は追撃しようとしたが、李典は罠と見抜いて反対した。夏侯惇は聞き入れず于禁とともに追撃して伏兵に襲われ、李典に助けられた。(『李典伝』)

当時、于禁・楽進・張遼がそれぞれ兵を任されていたが、思いのままに振る舞い協調しなかったため、趙儼(ちょうげん)が参軍として彼らを監督し、事あるごとに教え諭した結果、次第に仲睦まじくなった。
208年、荊州征伐でも趙儼は于禁・張遼ら7軍を統括した。(『趙儼伝』)

219年、樊城の戦いで曹仁を救援したが、洪水が起こって高台に孤立し、関羽に降伏した。一方で龐悳は降伏を拒んで戦死し、報告を受けた曹操は「于禁は私に仕えて30年になる。危機にあたってまさか(仕えて日の浅い)龐悳に及ばないとは思わなかった」と嘆息した。(『于禁伝』)

曹操は関羽を恐れ遷都を考えたが、司馬懿と蔣済は「于禁は洪水に遭っただけで敗北したわけではなく、そこまで危惧することはありません。孫権を焚き付けて関羽を裏切らせましょう」と進言した。(『蔣済伝』)

関羽はにわかに数万の捕虜を得たため兵糧が乏しくなり、呉との国境の関所を襲い兵糧を奪った。(『呂蒙伝』)

陸遜は呂蒙の後任として着任すると、関羽を油断させるためへりくだった手紙を送り、その中で于禁を捕らえたことを称賛した。(『陸遜伝』)

関羽は于禁軍3万を捕虜とし江陵へ移送した。呉が関羽を裏切って急襲し、江陵を落とした呂蒙は于禁を釈放した。(『呉主伝』)

孫権は于禁を厚遇し、ともに外出し馬を並ばせようとすると、虞翻(ぐほん)が「降伏者がなぜ我が君と馬首を並べるのか」と怒鳴りつけ、鞭で殴ろうとした。孫権は大声を上げ止めさせた。
後に酒宴を開いた時にも、于禁が音楽を聴いて思わず落涙すると虞翻は「そんな心にもないことをして許してもらおうと考えているのか」と非難し、孫権を不機嫌にさせた。

「呉書」に曰く。
魏と講和し于禁を帰国させようとすると、虞翻は「于禁は節義を守って死なずに捕虜となり、魏の法では処刑もされないでしょう。彼を送り返しても損にはならないが、罪人を放置したことにはなります。いっそここで処刑し、忠誠を貫かなかった者への見せしめとすべきです」と進言したが、孫権は聞き入れなかった。
見送りの際にも虞翻は「(無事に帰れるのは)呉に人物がいなかったからではない。たまたま私の意見が用いられなかっただけだ」と脅しつけた。
だが于禁は帰国すると虞翻を大いに称賛し、曹丕は虞翻をいつ招いてもいいように座を空けさせた。(『虞翻伝』)

221年、呉が降伏し、于禁は帰国した。髭も髪も真っ白になり、顔はやつれ、泣きながら頭を地面に打ち付けて拝礼した。曹丕は労をねぎらい安遠将軍に任じ、曹操の陵墓へ参拝するよう命じた。そこには関羽に敗れた于禁が降伏し、龐悳が激怒する絵が飾られており、于禁は面目なさと怒りから病を得て没した。厲侯(※疫病神のような意味)と諡された。
子の于圭(うけい)が爵位を継いだ。(『于禁伝』)

呉の趙咨(ちょうし)は魏へ使者として赴き、孫権の名主君ぶりとして「捕虜の于禁を殺さず解放した」ことを例として上げた。(『呉主伝』)

陳寿は「曹操はあのような(比類なき)武勲を打ち立てたが、その配下の優れた将として張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃が5本の指に入る。于禁は最も剛毅で威厳を持つと言われたが、結末をまっとうしなかった」と評した。

その後、諡号が改められることもなく、曹操の霊廟に祀られた魏建国の功臣にも列せられなかった。

「演義」でも史実通りの活躍が描かれる一方で、晩節を汚した最期から逆算したように、史実では生存している劉琮(りゅうそう)を暗殺したり、龐悳の手柄を邪魔したり、洪水も関羽による水攻めに変更されたりと、小物化・悪役化が図られている。