于吉  お前も一緒に連れていく



于吉(うきつ)字は不明
徐州琅邪郡の人(??~200?)

道士。

「江表伝」に曰く。
呉郡・会稽郡を行き来して教会を建て、道教を広め病気の治療を行い信者を集めていた。
孫策が呉郡の楼閣で配下や賓客を集め宴を開いていた時、于吉が門下を通り過ぎた。すると配下や賓客の2/3が楼を降りて于吉を出迎え礼拝し、役人が大声を上げて制止してもやめさせられなかった。
孫策がただちに于吉を捕らえさせると、信者は妻女を孫策の母の呉夫人(ごふじん)のもとへ送り助命嘆願した。呉夫人も「于先生は軍に幸運をもたらし、将兵の健康を祈っています」と口添えしたが、孫策は「こやつは怪しげなでたらめを行い、人心を惑わし、配下に君臣の礼を忘れさせ、私を放ったらかしにして礼拝までさせた。生かしておくわけには行かない」と聞き入れなかった。
配下も連名で助命嘆願したが、孫策はかつて同様に道教を広め、政治を混乱させた交州刺史の張津(ちょうしん)が結局は戦死したことを例に上げ、「于吉はもう亡者の帳簿に載っている。無駄な嘆願で紙や筆を無駄遣いするな」と言い、すぐに処刑させた。
だか信者はそれを信じず、于吉は尸解(死んだと見せかけ仙人になること)したのだと言い、以後も祀り続けた。

「志林」に曰く。
順帝の時代に于吉が神書を献上したという記録がある。もし同一人物なら、孫策に処刑された時、100歳近かったはずである。
礼の定めでは幼児と高齢者は処刑せず、天子は100歳の老人を顕彰する習わしがある。孫策が処刑するほどの罪もない、本来顕彰すべき于吉を殺したのは名誉なことではない。
また孫策の没後に張津は健在であり、その最期を知っているはずがない。(※裴松之も「江表伝」の張津に関する記述はでたらめだと同意する)

「捜神記」に曰く。
孫策は許都の襲撃を企て、于吉を従軍させた。旱魃により川が干上がったため、船を引かせて行軍していたが、配下の多くは于吉のもとに集まっていた。孫策は「私が朝早くから督戦しているのに、お前は怪しげな術を弄し配下を駄目にしている」と激怒し、于吉を縛ったまま地面に転がし、雨乞いをさせた。「雨が降れば赦し、降らなければ殺す」と迫ると、にわかに土砂降りとなり、川に水が溢れた。
しかし孫策は約束を違えて処刑した。配下は悲しみ、遺体を人目につかぬ所に安置すると、夜に雲が沸き起こり、于吉の死体を覆うと翌朝には消えてしまっていた。
以後、孫策は一人で座っているとそばに于吉の姿がぼんやり見えるようになった。そのため酷く苛立ち、常軌を逸することが増えた。後に重傷を負い、癒えかかった時に鏡を見ると、背後に于吉が映っていた。振り返っても誰もおらず、何度も同じことが起こり、鏡を割って絶叫し、傷口が全て裂けて絶命した。

裴松之は「江表伝と捜神記の記述は食い違い、どちらが正しいかわからない」と述べる。(『孫策伝』)

「演義」では逸話がミックスされ、于吉を慕い宴会を抜け出す配下に怒った孫策が捕らえさせ、雨乞いさせ成功したが殺した。その後、祟りをなして孫策を呪い殺した。