蓋勲  董卓を最も恐れさせた男



蓋勲(がいくん)字は元固(げんこ)
涼州敦煌郡文広至県の人(??~??)

後漢の臣。

家格は代々2千石(太守クラス)だった。
はじめ孝廉に挙げられ漢陽郡の長史となった。
梁鵠(りょうこく)が涼州刺史に赴任した時、武威太守が権勢を頼みに横暴に振る舞っていたため、蘇正和(そせいか)が摘発したが、梁鵠は仕返しを恐れ、蘇正和を殺して口封じしようと考えた。
そこでかねてから蘇正和を仇敵と恨む蓋勲に方策を尋ねたが、蓋勲は「優れた人物を謀殺するのは忠ではなく、危機に乗じて恨みを晴らすのは仁ではありません」と反対し「狩りのために飼っている鷹を、狩りをさせて殺しては無意味です」と諌めた。梁鵠は納得した。
蘇正和はいきさつを知り感謝したが、蓋勲は「梁鵠のためにやっただけで、蘇正和のためではない」と言い、恨みは忘れなかった。

「続漢書」に曰く。
184年、黄巾の乱が起こると元武威太守の黄雋(こうしゅん)が徴用されたが、期日に間に合わなかった。
梁鵠が処罰しようとすると、蓋勲が弁護し助けた。黄雋は黄金20斤をお礼に贈ろうとしたが、蓋勲は「特赦に該当すると思っただけで、あなたのためでも、名を売るためでもない」と固辞した。

同年、辺章(へんしょう)が反乱すると、涼州刺史の左昌(さしょう)は軍の編成にかこつけて数千万銭を盗んだ。蓋勲が諌めると逆恨みし、前線に飛ばして敗北させて罪に問おうとしたが、蓋勲はしばしば戦功を上げた。
辺章は金城郡を攻め、蓋勲は救援するよう言ったが左昌は無視した。金城太守の陳懿(ちんい)が戦死し、さらに進軍して左昌も包囲された。
左昌が救援要請を出すと、蓋勲とともに駐屯していた辛曾(しんそう)・孔常(こうじょう)らはそれをためらったが、蓋勲は故事を引いて激怒し、すぐさま救援に赴いた。
蓋勲が辺章らの罪を責めると、「左昌があなたの指示に従いすぐ兵を出していたら考えを改めたかも知れないが、ここまで罪を重ねてはもう降伏できない」と言い、辺章は撤退した。

左昌は横領の罪により断罪され、宋梟(そうきゅう)が後任の涼州刺史となった。
離反や略奪が相次いでいたため、民衆に孝経を学ばせモラルを上げようと考えたが、蓋勲は「兵難に対処せず急に変わったことをすれば、民は恨み朝廷の笑いものになるだけです」と反対した。
宋梟は無視してそれを上奏したが、はたして朝廷に職務怠慢として解任された。

羌族が反乱し護羌校尉の夏育(かいく)を攻撃すると、蓋勲や州兵が救援したが、敗走し蓋勲も包囲された。
3つの傷を受けたがひるまず、近くの木を指差し「屍はここに葬れ」と命じた。羌族の滇吾(てんご)は彼に厚遇されていたため「蓋勲は賢人だ。殺したら天に背くことになる」と言い武器を振るって味方したが、蓋勲は「お前ら叛徒は死すべきだとなぜわからない。すぐに私を殺せ」と罵ったため、敵も味方も思わず顔を見合わせた。
滇吾は自分の馬を与えたがそれも拒否し、とうとう捕らえられたが、羌族は手出しせず(任地の)漢陽郡へ送り返した。
涼州刺史の楊雍(ようよう)は上表して蓋勲を漢陽太守とした。
飢饉が起こり、蓋勲は倉を開いて1千余人を助けた。

後に官を辞したが、討虜校尉に招聘され、霊帝に謁見した。なぜ反乱が相次ぐのか問われ「寵臣の子弟が天下を騒がしているのです」と答え、霊帝に意見を求められた蹇碩(けんせき)は恐れて答えられず、蓋勲を恨んだ。
霊帝がさらに閲兵式を行い、兵に褒美を与えたことの効果を尋ねると蓋勲は「賊は遠くにいるのに近くに兵を並べても無駄です」と答えた。霊帝は「君に出会うのが遅かったのを悔やむ。そんなことを言ってくれる者はいなかった」と称えた。

蓋勲は劉虞(りゅうぐ)・袁紹とともに近衛兵を司り、「霊帝は聡明だが左右の臣がそれを覆い隠しているだけだ。力を合わせて寵臣を排除し、王室を復興させ引退できたら、なんと快いことか」と言った。
劉虞・袁紹はともに野心を抱いていたため同意したが、実行に移す前に張温(ちょうおん)の上奏により蓋勲は京兆尹に任じられた。霊帝は側近にしたいと思っていたが、彼を恨む蹇碩らが後押ししたため、拝命した。

長安県令の楊党(ようとう)は中常侍(宦官)の子で、権威を頼りに私腹を肥やしていたが、蓋勲は父子揃って摘発した。
太子の劉弁(りゅうべん)が寵愛する宦官の高望(こうぼう)の子を孝廉に挙げるよう蹇碩に頼むと、蓋勲が阻止した。
親しい者に「太子・高望・蹇碩の大きな3つの恨みを受ける」と心配されたが「(孝廉で)賢人を選ぶのは国に報じることだ。賢人でなければ推挙しない。死んでも悔いはない」と言った。
霊帝は重大事があると蓋勲に詔勅を下して意見を求め、しばしば褒美を与え、朝廷の群臣よりも信任した。

「続漢書」に曰く。
漢陽郡で王国(おうこく)が反乱し、三輔(長安周辺)は動揺した。蓋勲は5千の兵を率いていたが、1万まで増員して欲しいと要請し、士孫瑞(しそんずい)ら5人を推挙し、都尉に任命した。

霊帝が没し、後を継いだ少帝(劉弁)も実権を握った董卓に殺された。
蓋勲は「伊尹・霍光(古代の名宰相)らは功績を立てながらなお慎ましくしたが、醜い小人物のあなたは事態をどう収束させるつもりか。これでは私も慎んでばかりもいられない」と手紙を送り脅迫した。
董卓は内心で蓋勲をひどく恐れ、議郎に任じて手元に置こうとした。
皇甫嵩(こうほすう)が3万の兵を率いて扶風郡におり、連携して董卓を討とうと考えていたが、皇甫嵩も召還されて兵を失ったため、蓋勲は朝廷に戻った。

全ての群臣が董卓にへりくだっていたが、蓋勲だけは礼を略し、人々は色を失った。
董卓は司隷校尉を誰にすべきか司徒の王允(おういん)に問い、蓋勲を勧められたが、重職を与えては我が身が危ういと考え、越騎校尉に留めた。しかし近くで兵を率いているのも恐れ、潁川太守に赴任させた。それも到着前に取り消して朝廷に戻すなど右往左往した。
朱儁(しゅしゅん)が軍事について意見すると、董卓は「私は百戦して百勝してきた。お前の妄説は無駄だ」と一蹴した。蓋勲が「殷の武丁ほどの賢者ですら意見を求めたのに、あなたごときが人の口を塞ぐのか」と皮肉ると、董卓は「たわむれただけだ」と弁解したが、蓋勲は「怒りの言葉をたわむれたと言うなど聞いたことがない」と言い、董卓は朱儁に謝罪した。

董卓に敬して遠ざけられ思い通りにできず、背中に腫瘍ができて病没した。享年51。
董卓から何も受け取らないよう遺言したが、董卓は寛容な様を示そうと宮廷の秘宝を供物として贈らせた。

子の蓋順(がいじゅん)は永陽太守に上った。(『後漢書 蓋勲伝』)

「演義」どころか「正史」にも登場しない。