楽進 一番センター楽進

楽進(がくしん)字は文謙(ぶんけん)
兗州陽平郡衛国県の人(?~218)
魏の臣。
小柄だが烈しい胆力を持ち、曹操に仕え、はじめは帳下吏(記録係)を務めたが、故郷で1千人を徴兵し軍の仮司馬・陥陣都尉に任じられた。
呂布・張超(ちょうちょう)・橋蕤(きょうずい)との戦いでいずれも一番乗りを果たし、広昌亭侯に封じられた。
さらに張繡(ちょうしゅう)・呂布・眭固(すいこ)・劉備も撃破し討寇校尉に上った。(『楽進伝』)
200年、官渡の戦いでは徐州で劉備が蜂起すると曹操は自ら討伐へ向かい、于禁(うきん)はその間、袁紹の攻撃を防いだ。于禁・楽進は5千の兵で西南へ向かい、30以上の陣営を焼き払い、数千の首級と数千の捕虜を得て、何茂(かぼう)・王摩(おうま)ら20人以上の将を降伏させた。(『于禁伝』)
楽進は淳于瓊(じゅんうけい)を斬り、袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)との戦では大将の厳敬(げんけい)を討ち取り行遊撃将軍となった。
楽安郡の黄巾賊討伐、鄴の包囲戦にも参加し、南皮の袁譚との戦いでも一番乗りで突入した。(『楽進伝』)
張遼とともに陰安を落とし、住民を河南郡へ移住させた。(『張遼伝』)
206年、曹操は献帝への上奏で楽進・于禁・張遼を讃え、楽進は折衝将軍に取り立てられた。
高幹(こうかん)との戦いでは背後に回り、壺関に籠城した高幹軍の兵を多く斬ったが落とせず、曹操が自ら救援に赴き陥落させた。さらに反乱した管承(かんしょう)を李典(りてん)とともに攻め、海岸地帯を平定した。(『楽進伝』)
当時、于禁・張遼・楽進・張郃・徐晃が並び称され、代わる代わる先鋒や殿軍を務めた。(『于禁伝』)
于禁、楽進、張遼が協調せず思いのままに振る舞っていたため、趙儼(ちょうげん)が参軍として彼らを監督し、事あるごとに教え諭した結果、次第に仲睦まじくなった。(『趙儼伝』)
208年、赤壁の戦いに敗れた曹操は楽進に襄陽を守らせた。(『楽進伝』・『呉主伝』)
関羽・蘇非(そひ ※蘇飛と同一人物か)を撃破し、南郡の蛮族を降伏させ、劉備配下の杜普(とふ)・梁大(りょうだい)も撃破した。(『楽進伝』)
文聘・楽進は尋口で関羽を撃破した。(『文聘伝』)
孫権との戦いでは節を与えられ、曹操は帰還に際し楽進・張遼・李典を合肥に駐屯させた。500戸を加増され領邑は1200戸に上り、500戸を分け一子が列侯され、右将軍に昇進した。(『楽進伝』)
曹操は張遼・楽進に「揚州刺史の温恢(おんかい)は軍事に通達しているから、ともに相談し行動せよ」と命じた。(『温恢伝』)
212年、曹操が孫権を攻めると、孫権は益州に入っていた劉備へ救援要請した。
劉備は「呉はもちろん、楽進が関羽と対峙し、救援しなければ関羽も大敗するでしょう」と言い劉璋(りゅうしょう)へ1万の兵を借りようとしたが、4千しか与えられなかった。(『先主伝』)
215年、合肥の戦いの際には薛悌(せつてい)が護軍として張遼・李典・楽進を監督した。
曹操は孫権軍の襲来に備え、命令書を収めた箱を薛悌に預けていた。開くと「張遼・李典は出撃し、楽進は薛悌を守れ」とあった。籠城か出撃かで割れていた意見がまとまり、張遼・李典は奇襲を仕掛けあわや孫権を討ち取る大戦果を挙げた。(『張遼伝』)
この時、張遼は迎撃に出ようとしたが楽進・李典・張遼は平素から仲が悪かったため、二人が従わないことを懸念した。李典は憤然とし「これは国家の大事です。問題は君の計略が良いかどうかで、我々は個人的な恨みで道義を忘れはしない」と言い、張遼は懸念を捨てた。(『李典伝』)
「献帝春秋」に曰く。
張遼は戦場で見かけた敵将が誰か捕虜に尋ね、それが孫権だと知ると楽進へ「手遅れだった。知っていれば追いかけて捕まえたものを」と悔しがった。(『呉主伝』)
218年に没し、威侯と諡された。子の楽綝(がくちん)が後を継いだ。
楽綝も果断剛毅で父と同じ風格を持ち揚州刺史に上ったが、257年に反乱した諸葛誕に殺された。(『楽進伝』)
243年、建国の功臣の一人として曹操の霊廟の前に祀られた。(『斉王紀』)
張儼(ちょうげん)は「黙記」で「関羽は樊城の戦いで于禁を降伏させ、楽進・徐晃が派遣されたが包囲は解けなかった」と記すが、樊城の戦いは楽進没後の219年であり誤記である。(『諸葛亮伝』)
陳寿は「曹操はあのような(比類なき)武勲を打ち立てたが、その配下の優れた将として張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃が5本の指に入る。楽進は驍勇果断で名声を表したが、張郃・楽進の業績は張遼・徐晃と比べると評判ほど多くない。おそらく記録に遺漏があるのだろう」と評した。
「演義」では弓術に優れ、成廉(せいれん)や郭図(かくと)を射殺。
凌統と一騎打ちで互角に戦い、曹休(そうきゅう)の矢で落馬したところを討ち取りかけるが、甘寧の矢を浴びて重傷を負った。
その後は登場せず、多くの創作では矢傷により死亡したと描かれる。
「吉川三国志」では矢が眉間に刺さって即死し、「横山三国志」では左頬に刺さり軽傷に見えるがそのままフェードアウトした。
|