楽綝  楽進の不愍な子

 

楽綝(がくちん)字は不明
兗州陽平郡衛国県の人(??~257)

楽進(がくしん)の子。

218年、父が没すると後を継いだ。
果断剛毅で父と同じ風格を持ち揚州刺史に上った。(『楽進伝』)

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱では司馬璉(しばれん)が騎兵を、楽綝らが歩兵を率い文欽を撃破した。(『晋書 景帝紀』)

諸葛誕は友人の夏侯玄(かこうげん)や、王淩(おうりょう)、毌丘倹(かんきゅうけん)らが相次いで反乱したこともあって身に危険を感じ疑心暗鬼になっていた。
257年、司空に任命されると「私が三公になるのは王昶(おうちょう)の後のはずだ。しかも正式な使者ではなく、兵を楽綝に明け渡せと言っている。楽綝の陰謀に違いない」と疑い、ついに謀叛を決意した。
数百の兵で揚州の役所に迫り、逃げようとした楽綝を殺した。

「魏末伝」に曰く。
諸葛誕は賈充(かじゅう)に「晋への禅譲を誰もが願っている」と聞かされ激怒した。そして(司空の)お召しを受けると、閲兵式と偽って兵を揃え、襲撃し楽綝を殺した。そして「楽綝はでたらめばかり言う男で、私が呉と内通しているとか、詔勅で任務を交代するなどと言いふらし、無礼な態度を長く取り続けたため成敗しました。朝廷は私の言い分を聞き入れてくれると思いますが、認められなければ呉へ降ります」と上奏した。
だが裴松之は「魏末伝の記述はほとんど浅薄で、諸葛誕の上奏がこれほどまで事実を曲げているとは信じられない」と一蹴した。(『諸葛誕伝』)

死を惜しむ詔勅が下り、衛尉を追贈し愍侯と諡された。子の楽肇(がくちょう)が後を継いだ。(『楽進伝』)

「演義」では司馬懿配下のイマイチ武将シリーズの一人として登場。同じく名将の子である張遼の遺児・張虎(ちょうこ)とセットで戦いたびたび蜀軍に敗れた。
その後、公孫淵(こうそんえん)の討伐で活躍したが、史実と同様に諸葛誕の反乱の際に殺された。

なおこのアイコンは本来、父の楽進として描かれたものだが、別の絵師の描いた楽進を採用したため、許可を取り楽綝に転用したものである。