賀斉  反乱軍を秒殺してまわる



賀斉(がせい)字は公苗(こうびょう)
揚州会稽郡山陰県の人(??~275)

呉の臣。
賀輔(がほ)の子。

「虞預晋書」に曰く。
もともとの姓は慶で、伯父の慶純(けいじゅん)が安帝に召された際に安帝の父の諱(賀)を避けて一族ごと改姓した。

若くして郡の役人となり剡県長を代行した。
県の役人の斯従(しじゅう)が悪事を働き、賀斉は取り締まろうとすると「県内の豪族で山越にもなつかれており、もし処分すれば翌日にも一味が押しかけてきます」と止められた。賀斉はそれを聞くと激怒し、即座に斯従を殺した。
斯従の一族はすぐさま兵を集め1千人以上で役所を攻めたが、賀斉は役人や住民を指揮して自ら打って出て散々に撃破した。これにより賀斉の威名は山越に轟いた。
後に太末県・豊浦県で反乱が起こると、太末県長を代行し1年ほどで平定した。

196年、孫策は会稽太守になると賀斉を孝廉に推挙した。もとの会稽太守の王朗(おうろう)を助けるため、商升(しょうしょう)が挙兵すると、孫策は永寧県長の韓晏(かんあん)を南部都尉に任じて討伐させ、賀斉を永寧県長にした。
だが韓晏は敗北し、賀斉が後任の南部都尉になると、商升は恐れて和睦を申し出た。賀斉はその使者をこんこんと諭し、どう身を処すれば安全を保てるか教えてやり、商升を降伏させた。
しかし敵方の頭目の張雅(ちょうが)・瞻彊(せんきょう)はそれに不満を抱き、商升を殺し徹底抗戦を唱えた。
敵の勢いは強く、討伐軍は少なかったため、賀斉は無理に攻めず兵を休ませた。そのうちに張雅が娘婿の何雄(かゆう)と反目すると、山越をたきつけて敵対させ、情勢を見極め一度の戦で撃破し、震え上がった一味は軍門に下った。

203年、建安県に駐屯し、相次ぐ反乱に対応した。会稽郡の役所は各県に指示して5千の兵を集め、賀斉に指揮させた。
当時、不服住民の洪明(こうめい)・洪進(こうしん)・苑御(えんぎょ)・呉免(ごめん)・華当(かとう)らがそれぞれ1万戸を、呉五(ごご)・鄒隣(すうりん)らが各々6千戸を率いていた。
賀斉は余汗まで兵を進めると、兵力が乏しいため深入りすれば退路を断たれると考え、松陽県長の丁蕃(ていばん)を余汗に留めて後方に備えさせようとした。ところが丁蕃はもともと賀斉の隣県を治める同輩だったため、指図を受けるのは恥辱と思い従わなかった。
賀斉がやむなく丁蕃を斬ると、配下は恐れ入って命令に従い、予定通り余汗に兵を留めて進撃した。連勝を重ね洪明を討ち取ると洪進ら残る4人は降伏し、呉五・鄒隣も撃破され降伏した。一連の戦いで斬った首は6千、名のある頭目はことごとく捕虜にし、一帯の機構を立て直して1万の兵を編成した。この功により平東校尉となった。

205年、上饒を討伐し、分割して建平県を立てた。
208年、威武中郎将に昇進し、丹陽・黟・歙の反乱討伐に当たった。4郷が降伏し、葉郷を始新県に昇格させた。
歙の不服住民の金寄(きんき)・毛甘(もうかん)がそれぞれ1万戸を率い山に立て籠もると、黟の陳僕(ちんぼく)・祖山(そざん)も2万戸を率い林歴山に立て籠もった。
林歴山は四方が切り立った崖で高さは数十丈あり、道は狭く刀や盾も使えず、反乱軍は落石で抵抗した。打つ手が無いまま数日が経ち討伐軍に不満が募ると、賀斉は山の周囲をめぐって視察し、守備の薄い所を見つけ、鉄戈(ハーケン?)で密かに道を作らせ、夜間に侵入し百数十人を潜ませた。彼らが四方に散らばり一斉に太鼓や角笛を鳴らすと、反乱軍は敵が全て山に登ったと思い、大恐慌をきたし逃げ惑った。賀斉はその隙に山を占拠し陳僕・祖山を撃破し7千の首級を上げた。
歙県を6県に分割するよう上表し、孫権も同意しその6県で新都郡を立て、賀斉を太守に任じ偏将軍を加官した。

「抱朴子」に曰く。
反乱軍の中に呪術師がおり、禁術で剣を鞘から抜かせず、矢を跳ね返した。賀斉はじっくり観察し「禁術は刃のない武器や、毒のない虫は封じられないと聞く」と言い、硬い木で棍棒を作らせ5千人の棍棒部隊を編成した。反乱軍は禁術を頼みに油断しており、棍棒で何万人も殴り殺された。(『賀斉伝』)

208年の反乱討伐には蔣欽(しょうきん)も1万の兵を率い協力した。(『蔣欽伝』)

211年、呉郡余杭県で平民の郎稚(ろうち)が反乱し数千の兵を集めたが、賀斉にすぐさま平定された。余杭県を分割し隣水県を立てた。
賀斉が孫権を訪ねると、帰り際に送別の儀式が行われ、馬車と駿馬を下賜された。馬車に乗るよう勧められた賀斉は主君の前で恐れ多いと辞退したが、孫権は無理やり乗車させ、堂々と凱旋させた。孫権は笑いながら「人たるもの努力しなければならない。立派な行いを積み忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られない」と称え百歩余り見送った。

「韋昭呉書」に曰く。
孫権は「天下を平定し、異国から珍貴なものを貢がせ、獣にまで舞をさせようとするなら、あなた以外の誰が私にそれをさせてくれよう」と言った。
賀斉は「殿下は王者として広大な事業を切り拓き、私はめぐり合わせがよく戦場で腕を振るえました。鷹や猟犬のように役に立ちたいと願っており、異国や獣を従わせるのは御聖徳のなせる業で、私の役目ではありません」と応じた。

213年、豫章郡で彭材(ほうざい)・李玉(りぎょく)・王海(おうかい)が反乱し1万の兵を集めた。
賀斉はすぐに平定し、降伏した者のうち精悍な者を徴兵し、それ以外を戸籍に加えた。奮武将軍に昇進した。

215年、合肥の戦いに従軍し、徐盛(じょせい)が奪われた旗を奪回した。

「江表伝」に曰く。
撃破された孫権は賀斉の軍に迎え入れられた。賀斉は涙を流しながら「御主君は常に万全の行動を取ってください。今日は命を危うくされ、臣下は恐れおののき天も地も失ったような思いでした。どうか今回のことを一生の戒めとしていただきたい」と諌めた。
孫権は自ら涙を拭いてやり「全く恥ずかしい次第だ。この戒めを書き留めるだけではなく心にも刻みつけよう」と誓った。

216年、鄱陽郡の平民の尤突(ゆうとつ)が魏に調略され反乱した。賀斉は陸遜とともに討伐し数千人を斬って平定し、8千の兵を得た。
安東将軍に上り山陰侯に封じられ、扶州から皖までの地域の総指揮を任された。

222年、曹休(そうきゅう)が攻め寄せた時、賀斉は任地から遠かったため合流が遅れ後方で守備に当たった。
呉の船団は暴風により半数を失ったが、賀斉が無傷で残っていたため、それを後ろ盾にして勢いを盛り返した。
賀斉は豪奢できらびやかなことを好み、軍船は最高級の材料でしつらえ、豪華な装飾を施し、遠目で見ると山のように巨大だった。曹休はその威容に恐れをなして撤退した。
後将軍・仮節・徐州牧となった。(『賀斉伝』)

吾粲(ごさん)・呂範(りょはん)・賀斉が水軍を指揮し曹休の侵攻を洞口で食い止めた。(『吾粲伝』)

「江表伝」に曰く。
呂範・賀斉は豪奢華美が過ぎて王者のように分不相応な服飾をしていると批判する者がいた。孫権は「管仲は礼に背いたが桓公は大目に見てやり覇業にも支障はなかった。呂範・賀斉は礼に背いたわけではなく、ただ兵器を精巧にし船や車を整備しているだけで、軍の威容を盛んにし、統治には不都合ない」と却下し、批判も治まった。(『呂範伝』)

223年、呉の前線を守備していた晋宗(しんそう)が魏へ寝返り、蘄春太守に任じられ襲撃した。孫権は激怒し、曹休が撤退すると賀斉・胡琮(こそう)に糜芳(びほう)・鮮于丹(せんうたん)・劉邵(りゅうしょう)を率いさせて攻撃し、少数の兵で難なく晋宗を捕らえた。(『呉主伝』・『賀斉伝』・『胡琮伝』)

227年に没した。
子の賀達(がたつ)・賀景(がけい)も優れた武将で、孫の賀邵(がしょう)も「呉書」に列伝された。(『賀斉伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「甘寧・凌統・程普(ていふ)・賀斉・朱桓(しゅかん)・朱然(しゅぜん)が国家の威信を奮い起こした」と記した。(『孫晧伝』)

虞預(ぐよ)は「会稽典録」で「雄々しい資質と果敢な武略をもって一代に勲功を立てた。立派な手柄を立てその功が輝き渡った」と評した。(『虞翻伝』)

陳寿は「山越はしばしば反乱し、そのため呉は国外に向ける十分な兵力を得られず、魏に対して不利だった。この巻に収めたのはこの内患をよく処理し国内の安定に力を尽くした者たちである」と記すがなぜか賀斉だけ個別の評が与えられていない。

「演義」には登場しない。