郤正 劉禅晩年のお守役

郤正(げきせい)字は令先(れいせん)
司隸河南郡偃師県の人(??~278)
蜀の臣。
元の名は郤纂(げきさん)。
祖父の郤倹(げきけん)は益州刺史を務めたが、でたらめな租税を課したため非難され、流言飛語が遠方まで届いていた。
益州牧に赴任する劉焉(りゅうえん)が逮捕を命じられたが、到着前に郤倹は黄巾賊に殺された。(『劉焉伝』)
父の郤揖(げきしゅう)は劉焉と子の劉璋(りゅうしょう)に仕えたと思われ、益州が制圧されると劉備に仕えたが、219年、上官の孟達(もうたつ)が魏へ寝返ったためそれに同行した。
その後、郤揖は若くして没し、母も他家へ再嫁したため郤正は孤独になったが、貧乏にめげず学問に励み、20歳にして巧みに文章を書き、宮廷に入り秘書吏となり、秘書令史、秘書郎、秘書令と昇進していった。
栄誉や利益に興味がなく、過去・現代を問わず益州にある書物のほとんど全てに目を通し研鑽した。
蜀の実権を握る黄皓(こうこう)とは家が隣同士で、30年に渡りともに働いたが、気に入られも憎まれもしなかったため、官位は600石を超えなかったが、讒言されることもなかった。
詩・論・賦を百篇以上著し、「釈譏」の辞を陳寿は全文掲載し、裴松之も詳細に注を入れている。(『郤正伝』)
郤正はしばしば孟光(もうこう)に学問について尋ねた。ある時、孟光は太子の劉璿(りゅうせん)が学んでいる書物と、人となりについて尋ねた。郤正が当たり障りのないことを答えると、孟光は「権謀才智はどうか知りたいのだ」と言ったが、郤正は言葉を選び「それは胸のうちに秘めておくもので、いざとならなければわかりません」と返した。
孟光は彼が慎重でいいかげんな議論はしないと悟り「私は直言をはばからず、欠点を糾弾し、人々から憎まれた。あなたもよく思っていないようだが、私の言葉には論理がある。太子の勉学は問題用紙に答えるようなものではなく、もっと大切なことに努力すべきだ」と進言した。郤正も心からもっともだと思った。(『孟光伝』)
郤正は批判されがちだった姜維を「重責を務めながら倹約に努めているが、貪欲な者を教化したり、自身の欲望を抑えつけているわけではない。それだけで充分だから多くを求めていないだけだ。人々は成功者を称え、失敗者を貶めるばかりで、姜維が魏から寝返り一族を根絶やしにされたことすら非難する。彼のように学問を楽しみ、清潔・質素で自己を抑制した人物は時代の模範である」と擁護した。
一方で後世の孫盛は「姜維は魏を裏切り、親を捨て、祖国を攻めた。北伐は失敗し、忠・孝・義・節・智・勇のうち何一つ持っていない。それを人間の模範とは見当外れだ」と反論する。
裴松之は「郤正は姜維の全てを称賛したわけではなく、模範とすべきだと言ったのも学問を好み倹約に努めたことに関してだ。蜀へ降伏したのも危急に迫られやむなくだった。孫盛は親を捨てたことだけ責めればよいものを、過酷に言いすぎだし、郤正への批判も論拠に欠ける」と記した。(『姜維伝』)
263年、鄧艾が成都に迫ると劉禅は降伏し、その文書を郤正が書いた。
翌264年、鍾会が反乱した混乱により、劉禅はあわただしく洛陽へ移送されることになり、大臣の中では郤正と張通(ちょうつう)だけが妻子を捨てて随行した。郤正の補佐により劉禅は落ち度なく振る舞えたため「郤正を認めるのが遅すぎた」と嘆息した。
世論も彼を称え関内侯に封じられ、泰始年間(265~275)に安陽県令に、272年に司馬炎に「蜀の滅亡に際し道義を貫き忠節の道を外れなかった。心を尽くし職務に励み治績を上げた」と称えられ巴西太守へ昇進した。(『郤正伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
劉禅は司馬昭に「蜀を懐かしく思い出すか」と聞かれ「ここは楽しく思い出しません」と答えた。
郤正は「次に同じことを聞かれたら涙を流し、先祖の墓がある西を向くたびに悲しく、思い出さない日はありません、と答え目を閉じなさい」と助言した。劉禅がその通りにすると、司馬昭は「郤正の言葉にそっくりですな」と皮肉り、劉禅は「おっしゃる通りです」と驚き、一座の者は笑った。(『後主伝』)
278年に没した。(『郤正伝』)
陳寿は「絢爛たる文辞を用い張衡・蔡邕(さいよう)の面影があり、出処進退には君子が見習うべきものがある。譙周(しょうしゅう)・郤正は晋にも仕えたが、蜀での事績のほうが多いから蜀書に収めた」と評した。
「演義」では羌族への使者を務めたり、姜維に忠告したりと出番を増やされ、劉禅に泣いて蜀を恋しがるよう進言した逸話も描かれた。
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