厳白虎  東呉の徳王




厳白虎(げんはくこ)字は不明
揚州呉郡烏程県の人(??~??)

賊徒。
名は厳虎(げんこ)とも書かれる。
「朱治伝」には山越の人とも記される。

孫策が劉繇(りゅうよう)を攻めると、呉郡太守の許貢(きょこう)は朱治(しゅち)の行く手を阻み、撃破された。許貢は山越の厳白虎のもとへ落ち延びた。(『朱治伝』)

195年、孫策が劉繇を撃破すると、叔父の呉景(ごけい)らは、呉郡で1万余の人数を集め割拠していた厳白虎らを討伐してから会稽郡を攻めるよう勧めた。だが孫策は「奴らは群盗に過ぎず野心もない。いつでも捕らえられる」と却下し、言葉通りに会稽郡を落としてから厳白虎を撃破した。

「呉録」に曰く。
孫策が迫ると厳白虎は弟の厳輿(げんよ)を和睦の使者に送ったが、孫策に手ずから殺された。勇猛な厳輿を殺され動揺した一味は撃破され、厳白虎は許昭(きょしょう)のもとへ落ち延びた。程普(ていふ)は追撃を主張したが、孫策は「許昭は旧主の盛憲(せいけん)への忠義を忘れず、旧友の厳白虎にも誠意を尽くす。これは大丈夫たる者が心掛けるべきことだ」と言い、追わなかった。(『孫策伝』)

陳瑀(ちんう)は呉郡太守を自称し厳白虎と共闘していたが、呂範(りょはん)に撃破された。(『呂範伝』)

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は呂布・陳瑀と共闘しようとしたが、陳瑀は朝廷から入手していた官位の印章を祖郎(そろう)、厳白虎ら孫策の敵対勢力にばらまき、蜂起させようとした。だが孫策はこの陰謀に気づき、陳瑀を撃破した。
陳瑀の従兄の子の陳登(ちんとう)は復讐のため、厳白虎の残党に印綬を与え後方撹乱させた。孫策は陳登の討伐に向かい、その途上で狩猟に出た際に許貢の残党に襲われ重傷を負った。(『孫策伝』)

「演義」では独裁をふるい「東呉の徳王」と名乗る。孫策に敗れ、逃亡中に董襲(とうしゅう)に殺された。