阮籍  竹林の七賢・泥酔



阮籍(げんせき)字は嗣宗(しそう)
兗州陳留郡尉氏県の人(210~263)

魏の臣。
阮瑀(げんう)の子。
いわゆる竹林の七賢の筆頭格。
「王粲伝」に附伝され、「晋書」に列伝される。

父は建安七子の一人で、甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢である。
文学の才能があふれんばかり豊かで、世間を顧みず思いのままに振る舞い、寡欲に暮らし荘子を模範とした。歩兵校尉まで上った。(『阮籍伝』)

稀有な容姿で傲然と意のままに振る舞い、しかし喜怒哀楽を表に出さなかった。ある時は書に親しみ数ヶ月家から出ず、ある時は山川に籠もり数日帰らなかった。広く書を読んで最も老荘を好み、酒と詩吟が好きで琴を弾くのが上手かった。自分さえ満足すれば外面を気にせず、人々は狂人だと噂したが、族兄の阮武(げんぶ)だけが常に感服し敵わないと言ったため、人物を認められた。(『晋書 阮籍伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
自由闊達で礼儀や風習にこだわらなかった。服喪の決まりにも従わなかったが、死にかけるほど憔悴する孝行さだった。
兗州刺史の王昶(おうちょう)に招かれたが一日かけても話さず「計り知れない人物」と感嘆された。太尉の蔣済(しょうせい)はそれを聞き招聘し尚書郎となり、曹爽(そうそう)の参軍となったが病を理由に官を辞した。
1年あまり経ち249年、曹爽が粛清されると司馬懿に従事中郎に取り立てられた。
名声高い彼を高位につけるべきだと議論されたが、阮籍は俸給が目当てなだけで昇進に興味がなく、ちょうど欠員になった歩兵校尉の役所には美酒がたくさんあり、酒造りの上手い料理人もいると聞いて着任し、酒に溺れた。(『阮籍伝』)

蔣済に招かれたが辞退するとともに逃亡し、激怒された。郷里の指導者に諭され仕官したが、病を理由に官を辞した。後に尚書郎となったがまたも辞任し、曹爽の参軍になってもすぐ辞任した。1年あまり経ち曹爽が誅殺され、その見識を称えられた。
司馬懿が没すると司馬師の従事中郎となり、曹髦の代に関内侯に封じられ、散騎常侍に移った。

もともとは世を正そうという志があったが、王朝の過渡期にあり天寿を全うする名士が少なかったため、世俗を離れ酒に溺れた。司馬昭は阮籍の娘を司馬炎の嫁に迎えようとしたが、60日に渡り阮籍が泥酔し続けたため話を切り出せず諦めた。鍾会は揚げ足を取り陥れようと企んだが、泥酔し話にならず助かった。
司馬昭へ以前、東平で旅行したことを話すと東平相に任じられた。赴任するなり政庁の垣根を壊して見通しを良くし、公平かつ簡潔に法を運用したが10日ほどで辞めた。司馬昭は直属の従事中郎に任じた。
ある時、母殺しの事件が話題となり「父を殺してもよいが母を殺すなんて」と言い問題となった。理由を問われ「禽獣は母を知っているが父は知りません。父を殺すのは禽獣の所業ですが、母を殺すのは禽獣にも劣ります」と答え感服された。

歩兵校尉となり酒に溺れ、政治に携わらなくなったが、常に役所にはおり、朝の宴があれば必ず出向いた。
司馬昭が九錫を辞退した時、阮籍に辞退の文書を作るよう命じたが、泥酔しそれを忘れた。使者が受け取りに行った時も酔い潰れて寝ていたが、起こされると即座に草稿を作り、直すべき所の無い名文だった。文章は清らかかつ勇壮で重んじられた。

礼にこだわらなかったが言葉は深遠で、人物を評価しなかった。
きわめて孝行で、母が亡くなった知らせを受けた時に囲碁をしていたが、対局をやめずに続け、決着すると酒2斗を飲み干し、叫び声を上げて数升の血を吐いた。葬儀の際にも礼を無視して酒を飲み肉を食ったが、もう駄目だと嘆いて血を吐いた。
裴楷(はいかい)が弔問に訪れると泥酔し痩せ衰えて死にかかっており、髪も結ばず足を投げ出して座ったままぶしつけに目を向けられた。ある人が「弔いでは遺族が哭き、客は礼を取りますが、阮籍が哭かずあなたが哭いたのはなぜか」と問い、裴楷は「阮籍は世俗を離れているが、私は世俗に染まっている。だから私が逆に規範を守ったのだ」と答え感嘆された。
阮籍は普段から白眼と青眼を使い分け、世俗的で礼を守る人には白眼を剥いた。嵇喜(けいき)が弔問に訪れると白眼を向け怒らせた。その弟の嵇康(けいこう)が琴と酒を手に訪れると青眼で喜んだ。このことから礼に厳しい人々には仇敵のように憎まれたが、司馬昭がいつもかばってやった。(※白眼視の語源である)

女性にも礼を外れて応対し、兄嫁への態度を批判されると「礼というものは私のために設けられたのか」と反論した。
隣家で美人の人妻が酒を飲んでいるのを見ると一緒に酒盛りし、酔って横で眠った。全く悪気がなく、女の亭主さえ密通を疑わなかった。
嫁入り前に没した女がいると、父兄が知り合いでもないのに弔問した。表面は素っ気ないが内面はこのように篤実だった。(『晋書 阮籍伝』)

広武山に登って古戦場を眺め「英才がいなかったから項羽や劉邦のようなこわっぱに名を成させたか」と嘆息したり、心の赴くままひたすら車を直進させ、行き止まりになると慟哭して帰ったりした。
若い頃に蘇門山に登って名もなき隠者(蘇門先生)に会い、歌で意気投合したこともあった。(※晋書には孫登(そんとう)と記される)
人の欠点をあげつらうことが無かったため自然と人望を集めたが、礼儀作法にやかましい何曾(かそう)には徹底的に目の敵にされた。司馬昭が常にかばってやったため天寿を全うできた。(『阮籍伝』)

武牢山に登り、都を眺めて嘆き「豪傑詩」を賦した。
263年に没した。享年54。無数の文章を遺した。(『晋書 阮籍伝』)

「世語」に曰く。
子の阮渾(げんこん)も都で名を知られたが早逝した。(『阮籍伝』)

阮渾も父と似ていたが、阮籍は「一族では阮咸が私と同じ生き方をしている。お前まで同じではいけない」とたしなめた。(『晋書 阮籍伝』)

李秉(りへい)の「家誡」に曰く。
司馬昭は「天下で最も慎み深いのは阮籍だろうか。彼と語り合うと深遠な話には言及するが、時事の評論や人物評は一切しない。まことに最高の慎み深さと言うべきだ」と言った。
李秉も「軽々しく他人を評論したり、時事を説いてはならない。そうすれば悔恨は生じず災難も訪れない」と同意した。(『李通伝』)

「演義」には登場しない。