厳畯  分をわきまえた男



厳畯(げんしゅん)字は曼才(まんさい)
徐州彭城郡の人(??~??)

呉の臣。

若い頃から学問に通じていた。実直で一途に思いやり深く、見どころある人物には真心をもって忠告し、良き導き手としてその人の進歩を助けた。
戦乱を避けて江東に移り、諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)と並ぶ名声を誇り、三人は親しく付き合った。(『厳畯伝』)

張昭の子の張承(ちょうしょう)も三人と親しく付き合った。(『張昭伝』)

200年、孫権は討虜将軍になると歩騭を招聘した。
「呉書」に曰く、一年ほどして病により歩騭は免職され、諸葛瑾・厳畯とともに呉郡へ移った。三人は隠れなき名声を持ち一代の英傑と称えられた。(『歩騭伝』)

厳畯は張昭(ちょうしょう)に推挙され孫権に仕え、騎都尉・従事中郎に任じられた。

217年、魯粛(ろしゅく)が没すると孫権は後任として1万の兵を任せ陸口に駐屯させようとしたが、「私はただの書生で軍事には全く疎い者です。才能もないのに重要な役職に就けば、必ず咎めと後悔を招くでしょう」と激昂し涙を流しながら再三にわたり固辞した。
孫権もやむなく取りやめ、人々は厳畯が能力をわきまえて高位を譲ったことを美談と称えた。
「志林」に曰く、孫権は厳畯が馬に乗れるか試したが、またがった途端に(わざと?)転げ落ちた。(『厳畯伝』)

「江表伝」に曰く。
228年、呂範(りょはん)が没すると孫権は建業へ遷都し、宴の席で厳畯に「私は魯粛を古の名臣の鄧禹に、呂範を呉漢に匹敵すると評価したが、あなた方は納得していないらしい」と言い、厳畯も「魯粛・呂範は実質以上に評価されています」と認めた。
孫権は「鄧禹は光武帝へ帝位につき漢王室を復興させるよう勧めた。魯粛も私に初めて会った時に天下経営の大計を説いた。呂範は奢侈を好んだが配慮があり他に悪影響はなく、孫策のもとで職務以上に働いた。それは呉漢に似ている。魯粛・呂範を鄧禹・呉漢に喩えたのはそういった理由があり、えこひいきではない」と説明し、厳畯も納得した。(『呂範伝』)

229年、孫権が帝位につくと衛尉となり、蜀に使者として赴き諸葛亮に極めて高く評価された。(『厳畯伝』)

孫権が「幼い時に学んだ書物を暗誦してくれ」と命じると、衛尉の厳畯は「孝経」の冒頭を暗誦し始めた。すると張昭は「厳畯は物の道理がわかっていない」と言い「孝経」の「君子の上に事うるや~」の部分を暗誦し、人々は張昭は主君の前で暗誦すべき点を心得ていると称えた。(『張昭伝』)

「呉録」に曰く、隠者の徴崇(ちょうすう)は丞相の歩騭らと交際し、厳畯は「行いは人々を励まし、学問は師と仰ぐに足る」と推挙した。(『程秉伝』)

241年、太子の孫登(そんとう)は病没し、遺言で諸葛瑾・歩騭・闞沢(かんたく)・厳畯・張承らを推挙した。(『孫登伝』)

俸禄や褒美は全て親戚・知人に分け与えたため家は貧乏だった。
友人の劉穎(りゅうえい)は招聘を仮病で断っていたが、弟が没すると葬儀に参列し、孫権を怒らせた。厳畯は駆けつけて劉穎に陳謝させ、孫権は怒り厳畯を免職させたが、劉穎の処刑は免れた。
しばらく後に復職して尚書令となり、没した。
「孝経伝」と「潮水論」を著し、裴玄(はいげん)・張承とともにした管仲・季路についての議論も広く世に伝わった。

「呉書」に曰く、享年78。二人の子がおり、上の子の厳凱(げんがい)は升平宮(何姫(かき)の宮殿)の少府まで上った。(『厳畯伝』)

「呉録」に曰く、従弟の子の厳武(げんぶ)は囲碁の名手で「八絶」の一人に数えられた。(『趙達伝』)

周昭(しゅうしょう)は「優れた人物は4つのことを避ける。意見を頑固に主張すること、名誉権勢を争うこと、党派を重視すること、性急に事を運ぶことの4つだ。現代でそれを実践しずば抜けているのは顧邵(こしょう)・諸葛瑾・歩騭・厳畯・張承である」と述べ「厳畯・張承は学問を修めたが、それは利益を求めるためではなかった。諸葛瑾・歩騭・厳畯は無位無官の頃からの親友で、人々は好んで三人に優劣を付けた。はじめは厳畯>歩騭>諸葛瑾と評価したが、昇進につれ序列は逆となった。だがこれは凡人の浅薄な評価に過ぎず、三人の友情は欠けることなく昔のままだった。諸葛瑾・歩騭は富貴を極めたが、厳畯はそれを求めず、諸葛瑾・歩騭も無理に厳畯を引き立てようとせず友情を全うした」と評した。
さらに「張承は諸葛瑾・歩騭・厳畯に名声は次ぎ、諸葛瑾・歩騭と同様に軍事に携わった。その政治手腕を見て功績を比較すれば、優劣の差も爵位の高低もある。だが張承は立場を十分に心得て、きっぱりした態度で自らのやり方を曖昧にせず、私欲を持たず、事に当たれば調子に乗ってやりすぎることはなかった。朝廷では常に礼に従い、何はばかること無く直言し、全ての行動が忠の心で貫かれていた」と絶賛した。(『歩騭伝』)

陳寿は「厳畯・程秉(ていへい)・闞沢は一代の名学者で、とりわけ厳畯が栄達を捨てて旧友の劉穎を救ったのは立派な人格者の風格がある」と評した。

「演義」では赤壁の戦いを前に諸葛亮に論破され、諸葛亮がわざと孫権を怒らせると、それ見たことかと嘲笑っただけの脇役である。