魏延 反骨

魏延(ぎえん)字は文長(ぶんちょう)
荊州義陽郡の人(??~234)
蜀の臣。
212年、劉備が益州侵攻を開始すると一隊長として活躍し、牙門将軍に昇進した。
219年、漢中王に即位した劉備は、張飛が任命されるだろうという大方の予想に反し督漢中・鎮遠将軍・漢中太守に魏延を抜擢した。
方策を問われた魏延は「曹操が天下の兵を集めて攻め寄せればこれを防ぎ、配下に10万の兵を与えて攻めさせれば併呑してみせます」と答え人々を感嘆させた。(『魏延伝』)
劉備は魏延に漢中を任せ諸陣営に十分な兵を配備しておき、この制度が続いていたため、(魏延死後の)244年の興勢の戦いでも勝利を得た。
後に姜維が「防御にはふさわしいが大勝は得られない」として2つの城に兵をまとめたが、魏軍はその2城を包囲だけさせて進軍し、裏目に出た。(『姜維伝』)
220年、劉備が帝位につくと鎮北将軍に、223年には都亭侯に封じられた。
227年、諸葛亮が漢中に駐屯すると、督前部・丞相司馬となり涼州刺史を兼務した。(『魏延伝』)
228年、街亭の戦いに際し、群臣は経験豊富な魏延か呉懿(ごい)を先鋒にするよう具申したが、諸葛亮は馬謖(ばしょく)を抜擢し、大敗を招いた。(『馬良伝』)
230年、呉懿とともに郭淮・費瑶(ひよう)を撃破し、前軍師・征西大将軍・仮節となり、南鄭侯に進んだ。(『魏延伝』・『楊戯伝』)
だが出撃のたびに諸葛亮へ1万の別働隊を率いて韓信のように攻め上りたいと望み、却下されたため諸葛亮は臆病で自分は才能を発揮できないと嘆き、恨みに思っていた。
配下はよく訓練され、自身も並外れて勇猛で誇り高かったため、人々は彼にへりくだったが、楊儀(ようぎ)だけは構わず容赦しなかったので水と火のように険悪だった。(『魏延伝』)
諸葛亮は楊儀の才幹も魏延の剛勇も高評価していたため、二人が不仲なのを常に残念がり、一方だけに争いをやめさせることができなかった。(『楊儀伝』)
口論になると魏延は刃を振り上げて突きつけ、楊儀は号泣する有様で、費禕(ひい)がいつも二人の間に割って入り仲裁した。諸葛亮が没するまで二人が決裂せず力を発揮できたのは費禕のおかげである。(『費禕伝』)
「魏略」に曰く。
魏延は長安を守る夏侯楙(かこうぼう)を侮り、5千の兵と5千石をもらえば10日で長安を落とせると豪語したが、諸葛亮は危険であるとして却下した。(『魏延伝』)
「蜀紀」に曰く。
晋代に司馬駿(しばしゅん)のもとで諸葛亮の人物評をした際に、多くの者が非難した。だが郭沖(かくちゅう)は「知略は管仲・晏嬰にも勝るが、北伐が成功しなかったため非難されているだけだ」と言い、世に知られていない五箇条の業績を列挙し、人々を論破した。
その中で「諸葛亮は魏延に諸軍を任せ1万の兵で後方にいた。司馬懿が20万の兵で迫ると、諸葛亮は城門を開け放ち空城の計で司馬懿を撤退させた」と述べたが、裴松之は「そもそも諸葛亮は魏延に別働隊を任せなかったと本伝にあるのに、なぜ魏延に本隊を任せ自分は少数で残っているのか。そのうえ司馬懿の失態をその子の司馬駿に語っているのに、諸葛亮の策に司馬駿も感動したと書かれている。この話は全てでたらめだ」と一蹴した。
「漢晋春秋」に曰く。
231年、司馬懿・張郃は蜀軍の布陣した祁山を包囲し、王平(おうへい)を攻撃したが、魏延・高翔(こうしょう)・呉班(ごはん)が救援して撃破し、3千の首と5千の鎧、3千の弩を奪った。(『諸葛亮伝』)
231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯として連名した。(『李厳伝』)
232年、劉琰(りゅうえん)は魏延と不仲になり、でまかせを吐いたため帰国させられた。(『劉琰伝』)
「襄陽記」に曰く。
費禕・董恢(とうかい)が呉へ使いすると、孫権は泥酔し「楊儀・魏延は牧童くらいの小者だ。鶏や犬くらいの役に立ったことはあるが、重用すれば軽視できない。もし諸葛亮が没したら(彼ら程度の小者が重職にあれば)必ず災いを招き諸君は困るだろう」と言った。
費禕はおろおろしたが董恢が「楊儀と魏延は私怨で争っているだけで、野心はありません。中華統一のためには才能を用いる必要があります。彼らの才能を捨て置くのは、波風を前にして船の櫂を捨てるのと同じです」と答え、孫権は大笑いした。
諸葛亮は報告を聞いて喜び、董恢を巴郡太守に昇進させた。
だが裴松之は「習鑿歯は襄陽記と漢晋春秋の両方にこの逸話を載せているが、漢晋春秋では発言者が董恢ではない。それに本伝には董恢は官位が低かったとあるが、この逸話によるとすでに太守に出世している。いいかげんな記事だ」と指摘する。(『董允伝』)
234年、先鋒として出撃すると頭に角が生える夢を見て、夢占いに長けた趙直(ちょうちょく)に相談した。
角という字は刀の下に用いると書き、すなわち頭を刀で落とされるという意味だったが、趙直は「麒麟が角を武器として用いないように、戦わずして敵軍が敗れる予兆です」とごまかした。
同年秋、諸葛亮は病没し、遺言で魏延に殿軍を務めさせ、従わなければそのまま置き去りにするよう命じた。
費禕が命令を伝えると、はたして魏延は「丞相(諸葛亮)の遺体を帰国させ、私が諸軍を率いて魏軍を倒す。一人の死によって天下のことを廃するとは何事か。この魏延を誰だと思っている。楊儀ごときの指図は受けない」と言い、費禕と連名で帰国する部隊と戦いを続ける部隊を分けさせた。費禕は楊儀を説得すると偽って逃亡し、魏延が気づいた時には全軍撤退に掛かっていた。
魏延は先回りして吊橋を落とし退路を断ち、楊儀と魏延は揃って互いを告発する文書を成都へ送った。劉禅がどちらが正しいか問うと、董允(とういん)・蔣琬(しょうえん)はともに楊儀の肩を持った。
魏延は楊儀を迎え撃ったが、王平が魏延の兵を「公(諸葛亮)の遺体がまだ冷たくならないうちになぜこのようなことをするのか」と一喝すると、魏延に非があることを知っていた配下らは戦わずに四散した。魏延は息子らとともに漢中へ逃げたが、馬岱が追撃して討ち取った。
魏延の首が届けられると楊儀は踏みつけ「馬鹿野郎め。まだ悪事ができるならやってみろ」と罵り、三族が処刑された。
蔣琬は魏延と楊儀の戦いを止めようとしたが、魏延戦死の報が届き引き返した。
陳寿は「取り残された魏延は魏へ降伏せず楊儀と戦った。単に楊儀を取り除きたいと考え、世論も自分が諸葛亮の後継者だと認めると思っていたからで、反逆の意志は無かった」と記した。
「魏略」に曰く。
諸葛亮は臨終に際し魏延に後を任せた。魏延はそれを守ったが、楊儀は彼が後継者となれば殺されると危惧し、魏延が魏へ寝返ると喧伝した。そのため寝返るつもりのなかった魏延は戦わずして壊滅したのである。
裴松之は「これは魏にもたらされた伝聞の一つに過ぎず、事実かどうか検討する価値はない」と指摘する。(『魏延伝』)
楊儀は魏延誅殺の功績は極めて大きいと思い込み、自分が諸葛亮の後継者になるのが当然だと考えた。だが蔣琬が後を継いだため憤り「こんなことになるなら軍を上げて魏へ寝返ればよかった」と暴言を吐き、反省の色なく自害させられた。(『楊儀伝』)
楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「猛々しく危難に臨み外敵を防ぎ、国境を守り抜いた。しかし協調性はなく、節義を忘れて反乱の意志を述べた。最後の行為を憎み、最初の功業を惜しむが、全て性格によるものだった」と評した。(『楊戯伝』)
陳寿は「勇猛をもって(重職に)任じられ尊重された」と称えつつも、劉封(りゅうほう)・楊儀ら晩節を汚した人々と同じ伝に収め「災いを招き罪を得たのは身から出た錆である」と評した。
「演義」では登場が早く、長坂の戦いを前に荊州へ劉備を招き入れようとし失敗。長沙郡の攻略に向かった関羽との内通を疑われた黄忠を助けたが、諸葛亮には反骨の相があるとして目の敵にされた。
五虎大将軍に次ぐ勇猛さで史実よりも多くの活躍が追加され、最期も多少のアレンジはあるがおおむね史実通りに描かれた。
謀叛人として斬られたことや「演義」での諸葛亮との確執のため、中国でも魏延は並外れて嫌われており、彼が祀られた廟は鉄道開通の際に移転されず、そのまま取り壊されたという。解き放たれた魏延の霊が暴れないことを祈る。
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