吾粲 熱き人格者

吾粲(ごさん)字は孔休(こうきゅう)
揚州呉郡烏程県の人(??~??)
呉の臣。
「呉録」に曰く。
幼い頃、ある老女が彼を見て「九卿宰相となる骨相だ」と予言した。
孫何(そんか)が烏程県長の時に下役人を務め、非凡な才能と評価され、孫何が将軍に昇進すると曲阿の丞に抜擢された。やがて長史に上り、治績で評判を取った。もともと低い身分の出自だったが(名家の出の)陸遜や卜清(ぼくせい)に並ぶ名声を得た。(『吾粲伝』)
周昭(しゅうしょう)は「顧邵(こしょう)は兵卒の丁諝(ていしょ)や牧童の吾粲を抜擢し、陸氏や全氏のような名家と同列に待遇した。立派な才能を持った者が日の目を見ずに終わることはなくなり、民衆の気風も心のこもったものになった」と称えた。(『歩騭伝』)
219年、孫権が後漢の驃騎将軍に任じられるとその主簿となり、後に山陰県令を務め、朝廷に戻り参軍校尉となった。
222年、呂範(りょはん)・賀斉(がせい)とともに水軍を指揮し、洞口で曹休(そうきゅう)の侵攻を食い止めた。暴風が起こり次々と船が転覆したり魏軍に拿捕され、溺れる兵は大船に助けを求めた。他の船は積載過多の転覆を恐れ、乗り移ろうとする兵を矛で突き落としていたが、吾粲と黄淵(こうえん)だけは構わず救助させた。側近がやめるよう言うと「沈んだらともに死ぬだけだ。窮地にある人をどうして放っておけるか」と返した。吾粲と黄淵のおかげで100人以上が助かった。
帰還後、会稽太守に上った。謝譚(しゃたん)を功曹に招いたが断られると「龍は身を潜めているだけではなく、時が来れば大いに能力を発揮するから神秘的な存在だと崇められる。鳳凰も素晴らしい鳴き声を聴かせるから尊ばれるのだ。天の彼方に姿を隠し、深い淵に潜ったままではいけない」と教え諭した。
志願兵を募り、昭義中郎将として呂岱(りょたい)とともに山越を討伐した。(『吾粲伝』)
236年、中郎将の吾粲と唐咨(とうし)は2年前に反乱した李桓(りかん)・羅厲(られい)を攻め捕縛した。(『呉主伝』)
山越の董嗣(とうし)は険阻な地に根城を築き豫章・臨川郡を略奪した。吾粲・唐咨が3千の兵で戦ったが何ヶ月経っても攻略できなかった。周魴(しゅうほう)は交代を申し出ると董嗣を暗殺し速やかに鎮圧した。(『周魴伝』)
241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「吾粲らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)
都に戻り屯騎校尉・少府となり、太子太傅に昇進した。(『吾粲伝』)
243年に太子太傅の闞沢(かんたく)・薛綜(せつそう)が没しておりその後任だろう。(『闞沢伝』・『薛綜伝』)
二宮の変が起こると正しいと考えるところを誰はばかることなく言い立て、後継者は太子の孫和(そんか)が当然なるべきで、孫覇(そんは)は夏口の指揮者として外に出し、佞臣の楊竺(ようじく)は都から追放すべきだと意見した。
また陸遜に状況を伝えて弁護を頼み、立て続けに上表させ孫権を厳しく諌めた。
これによって孫覇・楊竺の恨みを買い、讒言により誅殺された。(『吾粲伝』)
陸遜とたびたび手紙をやり取りした(そそのかした)という罪状だった。(『陸遜伝』)
陳寿は「吾粲と朱拠(しゅきょ)は困難な時勢の中にあって、正義を守らんがために身を滅ぼした。悲しいことである」と評した。
没年はwiki等で陸遜と同じ245年にされているがなんの根拠もない。243~245年なのは確かである。
「演義」では孫権に招かれた一人として名が挙がるのみ。
「蒼天航路」で初めて脚光が当たり、赤壁の戦いで苦肉の策を考案する大役を与えられた。
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