虞翻  正直すぎた男



虞翻(ぐほん)字は仲翔(ちゅうしょう)
揚州会稽郡余姚県の人(??~??)

呉の臣。

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

会稽太守の王朗(おうろう)の功曹を務めた。
孫策が侵攻した時、虞翻は父の喪に服していたが、喪服のまま駆けつけた。服喪中は役所に入れないため王朗が外へ出迎えようとすると、喪服を脱ぎ捨てて中へ入った。虞翻は敵わないから逃げるよう勧めたが、王朗は漢の官吏は街を捨てられないと拒否し、敗れて海を渡って逃げた。
虞翻は受け入れを拒否する侯官県長を説き伏せた。落ち着くと王朗は母のいる会稽郡へ帰るよう勧め、帰郷した虞翻は孫策に功曹に任命され、友人として遇され親しく屋敷を訪れられた。

狩猟を好む孫策を「あなたの武勇は高祖に勝りますが、警護も連れずお忍びで出掛けるのはおやめください」と故事を引いて諌めたが、孫策は「意見はもっともだが、しかつめらしく座っていると心が鬱屈する。野原の真ん中で将来に思いを巡らせたいのだ」と同じく故事を引いて聞き入れなかった。

幕下を離れ呉郡富春県長をしていた200年、孫策が急逝した。
主だった役人はみな任地を離れて葬儀に出ようとしたが、虞翻は「街をほったらかしにして遠くへ行けば山越が反乱する」と憂慮し、任地で喪に服した。他の県もそれに倣い、反乱は未然に防がれた。
州に茂才に推挙され、朝廷から侍御史に、曹操から司空の役所に招かれたがいずれも固辞した。
孔融(こうゆう)に手紙と自著を贈ると返書で賛嘆され、張紘(ちょうこう)も孔融に「虞翻はいろいろ悪い評判を得ているが優れた宝物で、ノミを入れ磨けば磨くほど光沢を増すから、非難されても身を損なわない」と話した。

孫権に騎都尉に任じられたが、意向に逆らい諫言し、他人と協調できずしばしば非難されたため、丹陽郡涇県へ流された。
だが219年、呂蒙が関羽を欺くため病気を理由に前線から下がると、医術に詳しい虞翻を側近として復帰させるよう取り計らった。
関羽討伐の兵を挙げると南郡太守の糜芳(びほう)は降伏した。呂蒙は城に入らず広場で勝利の宴を開こうとしたが、虞翻に「糜芳に二心が無いのは明らかですが、城兵の全てが信用できるわけではないのに、なぜ急ぎ城を占拠しないのですか」と諌められ、すぐに従った。この時、城内には密かに反乱を企てる者がいたが、これにより未然に防がれた。
関羽を撃破すると、孫権は筮竹で吉凶を占わせた。虞翻は「2日以内に討ち取れる」と的中させ、孫権に「伏義(八卦の祖)には及ばぬまでも東方朔(占いの名手)には肩を並べられよう」と称えられた。

関羽の捕虜になっていた于禁(うきん)を孫権は厚遇した。ともに外出し馬を並ばせようとすると、虞翻は「降伏者がなぜ我が君と馬首を並べるのか」と怒鳴りつけ、鞭で殴ろうとした。孫権は大声を上げ止めさせた。
後に酒宴を開いた時にも、于禁が音楽を聴いて思わず落涙すると虞翻は「そんな心にもないことをして許してもらおうと考えているのか」と非難し、孫権を不機嫌にさせた。

220年、孫権の呉王即位を祝う酒宴の終わり頃、孫権は自ら群臣へ酒を注いで回った。虞翻は酔い潰れたふりをして避け、孫権が通り過ぎるとすぐに身を起こした。孫権はそれに気づいて激怒し、剣を抜いて斬ろうとした。群臣は動揺し動けなかったが、劉基(りゅうき)は少しも慌てず孫権を抱き止め「酒が回った状態で人を殺したら、虞翻に落ち度があったとしても、世間の人々に道理は通じません。大王(孫権)はせっかく賢者を招いていると慕われているのに、失望させてはいけません」と諌めた。
孫権はなおも「曹操は高名な孔融さえ殺した。俺が虞翻を殺して何が悪い」とごねたが、「曹操は軽々しく立派な人物を殺したため非難されました。大王は徳義を堯舜(※古の名君)と比べているのに、どうして曹操ごときと自身を比べるのですか」と劉基にさとされ、ようやく矛を収めると「俺が酒が入った後に殺すと言っても従うな」と命じた。

船で出掛けた時に糜芳の船に出会った。麋芳の配下が「将軍の道を空けよ」と命じると、虞翻は「忠も信も守れない者がどうやって主君に仕えるのだ。劉備に預けられた2つの城を明け渡してなお将軍を名乗るのか」と怒鳴りつけた。麋芳は返事をしなかったが、急いで道を空けさせた。
また虞翻が麋芳の軍営を通り抜けようとしたが、門を閉ざされた時には「閉めるべき時に開けて降伏し、開けるべき時に閉める。物の道理がわかっているのか」と罵り恥じ入らせた。

このように人のことを顧慮せず自分の正しいと思うところを押し通す性格で、酒席でたびたびしくじりを犯した。
孫権が張昭(ちょうしょう)と神仙の話をしているとそれを指差し「あいつらは死人だ。この世にいない神仙のことをまことしやかに語っている」と嘲った。
一度ならず虞翻の言動に腹を立てていた孫権はついに限界を迎え、交州へ配流した。

配流先でも学問や教育に励み、常に門生は数百人いた。「老子」・「論語」・「国語」に注釈を加え、広く世に伝わった。
かつて丁覧(ていらん)や徐陵(じょりょう)は少しも評価されていなかったが、虞翻は彼らに一目会うや才能を見抜き、友人として交友し、名を知られるように守り立ててやった。(『虞翻伝』)

虞翻は古くから著名で、龐統は荊州の名士だったが、二人とも年若い陸績(りくせき)とは親友だった。(『陸績伝』)

諸葛瑾(しょかつきん)は何度も虞翻を赦免するよう取りなしたが、虞翻は親しい者へ「諸葛殿は仁に厚く万物の生命を大切にされるから、その弁護のおかげで私は一命を取りとめた。しかし悪事を重ねて罪は重く、不興を買っており、いくら諸葛殿が援助しても、私は徳が無いし望みも無いでしょう」と述べた。(『諸葛瑾伝』)

241年、孫登(そんとう)は遺言で「蔣脩(しょうしゅう)・虞翻ははっきりした志操によって行動する」と推挙した。(※他に列挙された人物が孫登の側近ばかりで、同姓同名の別人か)(『孫登伝』)

交州にあること10余年で没した。享年70。
棺は故郷に運ばれて埋葬され、妻子も帰郷を許された。
11人の息子がおり、四男の虞汜(ぐし)が最も著名で、その弟らも高位に上った。(『虞翻伝』)

陳寿は「古に言う狂直(過度なまでに正しさを貫く)ともいうべき人物で災いを被るのは不可避だったが、受け入れられなかった孫権も度量が狭かった」と評した。

wiki等は生没年を「164~233」と記すが、241年に没した孫登に(※別人の可能性が高いが)遺言で推挙されたり、229年の孫権即位の際に耳順(60歳)と言っていたりと判然としない。

「演義」でははじめに仕えた王朗の小物化が図られているため、孫策に無謀な戦いを挑む彼に愛想を尽かして辞去した。
「吉川三国志」では字の仲翔でさも重要人物のように登場し、その様子がやけにかっこよく描かれ、王朗に「あなたも次の時代に必要ない」と捨て台詞を浴びせるも、王朗の方が後々はるかに出番が多いという、吉川あんまり三国志詳しくない説の傍証の一つとなっている。
なお史実のような性格の悪い逸話はことごとく削られており、個性も失われている。