何晏 私腹を肥やした清談の始祖

何晏(かあん)字は平叔(へいしゅく)
荊州南陽郡宛県の人(??~249)
魏の臣。
後漢の大将軍・何進(かしん)の孫。
尹氏(いんし)の子。曹操の養子・娘婿。
「曹真伝」に附伝される。
「魏略」に曰く。
曹操が司空の時(196~208)に母の尹氏が側室となり、何晏も引き取られた。
同時期に秦朗(しんろう)も母が曹操の側室となり、曹丕・何晏と兄弟のように育てられた。秦朗は慎重な性格でおとなしくしたが、何晏は遠慮を知らずまるで太子のように振る舞ったため、曹丕は彼を嫌い姓や字ではなく「養子」と呼んだ。
曹操の娘の金郷公主(きんきょうこうしゅ)をめとり、若い頃から秀才の評判だった。老荘思想を好み「道徳論」や数十篇の文・賦を著した。
「魏略」に曰く。
公主をめとったが道楽者で曹丕に嫌われていたため、曹丕の存命中には一切登用されなかった。(『何晏伝』)
曹叡の代に夏侯玄(かこうげん)・何晏・鄧颺(とうよう)・丁謐(ていひつ)らは名声高く勢いに乗り出世したが、曹叡は彼らが有名無実な人物であるとし全て排斥した。(『曹真伝』)
袁亮(えんりょう)は何晏・鄧颺らの人柄を憎悪し、論説を書いて激しく非難した。(『袁渙伝』)
「傅子」に曰く。
夏侯玄・何晏・鄧颺が席巻していた頃、傅嘏(ふか)は彼らから交際を求められたが断った。荀粲(じゅんさん)が「夏侯玄は一時代を風靡する英傑で、交際を断れば恨みを招く。二人の優れた人物が仲良くしないのは国家の利益に反する」と言うと、傅嘏は「何晏は言葉は深遠だが心情は卑しく、弁舌を好み誠実ではない」と評し「三人とも道徳に外れており、遠くでも災難が降りかかる恐れがあるのに、昵懇になどできない」と言った。(『傅嘏伝』)
「魏略」に曰く。
正始年間(240~249)の初期に曹爽(そうそう)が実権を握ると迎合し、才能も認められ散騎侍郎に任じられ、侍中尚書に上った。妻と母の七光で列侯もされた。
極めて自己愛が強く、いかなる時も白粉を手放さず、歩きながら自分の影を振り返って眺めるほどだった。
尚書として官吏の任用を司り、昔からの友人を多く抜擢した。(『何晏伝』)
曹爽ははじめ司馬懿に父のように仕えたが、何晏らにそそのかされて人事を壟断し、司馬懿は難を避けて病と称し隠棲した。
何晏らは諸王の領邑や財産を奪ったり、州郡に賄賂を要求し私腹を肥やした。廷尉の盧毓(ろいく)を部下の些細な過失から免職したり、曹叡の宮廷から女官を奪って芸を仕込ませ、宴会に明け暮れた。(『曹真伝』)
何晏が盧毓の後任の廷尉となった。(『盧毓伝』)
「魏略」に曰く。
鄧颺は賄賂を好み、朝廷にいた頃に臧艾(ぞうがい)は、父の妾を鄧颺に差し出して官位を得たため都の人々は「官位を種に女を取り引きした鄧颺」と蔑んだ。
鄧颺の推薦する人物はこのような者ばかりで、何晏の官吏選抜が失敗したのも鄧颺に原因があり、彼と付き合った結果の自業自得だった。
丁謐は貴族の家柄を嫌って粗略に扱い、位階では並んでいても何晏や鄧颺ら名家の出の者らを侮っていたが、曹爽にだけはへりくだり、曹爽も丁謐を尊敬し彼の意見には必ず従った。人々は何晏・鄧颺・丁謐を三匹の犬にたとえ、何晏・鄧颺は人に噛みつき、丁謐は曹爽の側を離れず癌になると、犬の中では丁謐が最も性質が悪いと評した。(『曹真伝』)
王粛(おうしゅく)は蔣済(しょうせい)・桓範(かんはん)と議論している時、何晏らの話になると「こいつら(何晏・鄧颺)は弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王朗伝』)
「王弼伝」に曰く。
正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、何晏は賈充(かじゅう)・裴玄(はいげん)・朱整(しゅせい)を起用し、さらに王弼(おうひつ)を推薦したが、何晏と対立する丁謐が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。
その際、王弼は曹爽に面会を願ったが、ただ道家の話をしただけで、曹爽を不快にさせた。王弼は道理をわきまえ名声を顧みなかったため出世コースから外され、間もなく王黎が亡くなった時も後任には王沈(おうしん)が任じられた。何晏は残念がったが、王弼は尚書郎になってから日も浅く、事務も得意ではないからと全く意に介さなかった。
道家の学説では何晏に及ばなかったが、一部の論説では勝るものも多くあった。(『鍾会伝』)
247年、尚書の何晏は曹芳へ為政者の心得を説き、品行と学問を修めるよう諌めた。
249年、何晏ら曹爽一派は挙兵した司馬懿に一網打尽にされ三族皆殺しとなった。(『斉王紀』)
「魏氏春秋」に曰く。
夏侯玄・何晏らは名声高く、司馬師も彼らと交際した。司馬師は何晏は自分達を褒めそやしたが、内心では何晏は自身を神になぞらえていたのだろうと振り返った。
曹爽一派が捕らえられると司馬懿は何晏に裁判を担当させた。何晏は厳しく裁くことで自分は赦免してもらおうと思っていたが、司馬懿は「罪人は八人だ」と言った。何晏は七人の名を上げ、八人目は自分だと気づき、処刑された。(『何晏伝』)
裴徽(はいき)は管輅(かんろ)が都に上ることになると「何晏・鄧颺は国を治める才略を持ち、物事の道理にも精通している。易について質問されるだろうから対策しておくとよい」と勧めたが、管輅は自分の相手にもならないと意に介さなかった。
248年の末、管輅は何晏・鄧颺に招かれ、夢占いをし、謙虚に努めるよう言った。鄧颺は「年寄りの言い草と同じだ」と文句を付け、管輅は「年寄りは生を超えた物を見られ、言い草の中には言葉を超えた深い意味が表れます」と答えた。何晏は「年が明けたらまた会おう」と言いお開きになった。
管輅が帰ってこのことを話すと、おじは言葉があけすけに過ぎると怒ったが、管輅は「死人と話しているのに何を恐れることがありましょうか」と言った。
10日余り経ち、年明けに曹爽一派は粛清された。
「管輅別伝」に曰く。
管輅は何晏を「才能は壺の中の水のように人に見える部分は澄んでいるが、見えない部分は濁っている。広く精神を遊ばせはしても学問に努めないから才能を立派に完成させられない。壺の水に山を映しても全体が映せないように彼の智は小さな器に大きなものを入れようとして惑ったのだ。それゆえ「老荘」を語れば巧みでも根本には触れられず、「易」を語れば華麗でも偽りが多い。もし彼に高い才能があれば浅薄な性格でも人々から隔絶し、中くらいの才能でも精神を遊ばせ人々から抜きん出た。ちっぽけな才能を巧みさに見せかけていただけだ」と評した。
裴徽も「何晏と議論したことがあるが道理の微妙な点を捉えているように感じ、人々も付和雷同して心服していたから、ますます本質がわからなくなっていた。あなたの批評を聞いてはっきりと認識できた」と納得した。
劉邠(りゅうひん)も管輅の議論は何晏を遠く超えていると評した。
一方で何晏・鄧颺は管輅の天賦の才を認め、管輅も彼らと語ると精神が活発化し夜も眠くならないと言っており、親密ぶりが記されている。
また裴松之は「劉寔(りゅうしょく)・劉智(りゅうち)兄弟は儒学で名声があり、管輅や何晏らの玄学の議論は不得手だった。「世語」には劉寔は博識で弁が立つが、それでも裴頠(はいき)・何晏には及ばないと書かれている」と指摘する。(『管輅伝』)
「魏末伝」に曰く。
金郷公主と何晏は同母兄妹だった。公主は聡明で、日に日に増長していく何晏を見かねて母に相談したが「何晏に嫉妬しているのだろう」とからかわれるだけだった。
何晏が処刑されると5~6歳の息子が遺され、司馬懿は捕らえようとしたが尹氏に匿われた。報告を受けた司馬懿は金郷公主が何晏の行く末を案じていたことに感心しており、尹氏の顔を立て赦した。
(※裴松之は金郷公主の母は杜氏(とし)であり「口に出すのも恥ずかしい」、「下等な書物」と罵倒する)(『曹真伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
251年、王淩(おうりょう)は反乱の決行前に子の王広(おうこう)へ相談したが「何晏は虚無の説を好み政治を顧みなかった。彼らが処刑されても民が平然とし哀悼しなかったのは民心を失っていたからだ。一方で司馬懿は民心を得ている」と反対した。
(※裴松之は「漢晋春秋」にのみこのような発言が多く載っており全て創作だろうと指摘する)(『王淩伝』)
「通語」に曰く。
費禕(ひい)は曹爽粛清について「曹爽の官位を奪ったり処刑するのはよいが、その乳飲み子まで殺して功臣の曹真(そうしん)の血を絶やし、魏王室の婿の何晏まで殺したのは司馬懿の僭上と刑の乱用である」と論じた。(『費禕伝』)
政治家としては無能・非道だったが文学者としては「論語集解」や「老子道徳論」を編纂し、後の竹林の七賢らにもつながる清談の元祖ともなった人物である。
「演義」では曹爽粛清の際に登場し管輅に死相を見られるが、文学者の一面や、曹操の娘婿であることは描かれない。
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