華佗 神医

華佗(かだ)字は元化(げんか)
豫州沛国譙県の人(??~208)
医師。
名は華旉(かふ)ともいう。
徐州へ遊学し学問を修め、いくつかの経書に通じた。沛国相の陳珪(ちんけい)に孝廉に推挙され、太尉の黄琬(こうえん)に掾に招かれたがどちらも断った。
養生の術(健康法)に通暁し、人々に百歳くらいと噂されたが若々しかった。薬学にも詳しく、秤を用いず目分量で数種の材料で調合した。灸も鍼も1~2ヶ所にしか使わず、しかし全て快癒した。
薬や鍼が効かなければ麻沸散(麻酔薬)を飲ませて昏睡させ、患部を切除したり洗浄して治療した。
(※事実なら世界初の麻酔手術とされる華岡青洲に先駆けること1600年である)
以下、陳寿の本文でも多数の治療法が紹介されているので列記する。
元の甘陵相の夫人が妊娠中に激しい腹痛を起こした。華佗は脈を取り「胎児が亡くなった。腹の左にあれば男、右にあれば女だ」と言い、左にあった。薬で流産させるとはたして男で、すぐに痛みも消えた。
尹世(いんせい)は手足が熱っぽく口が渇き、人の声にいら立ち、小便が出ない病に苦しんだ。華佗は「熱い物を食べて汗が出れば治り、出なければ3日で泣きながら死ぬ」と診立てた。汗は出ず、その通りになった。
児尋(げいじん)と李延(りえん)は頭痛と熱に苦しみ、華佗は「児尋には下剤を与え、李延には汗をかかせよ」と命じた。同じ症状なのになぜ処方が違うのか聞かれると「児尋の体質は外側が強く、李延は内側が強い」と答え、翌朝には治った。
厳昕(げんきん)が訪ねてくると華佗は顔を見るなり「身体が悪くないか」と聞いた。厳昕は何も変わらないと言ったが「急病が起こると顔に出ている。酒を多く飲まないように」と忠告した。帰り道で厳昕は目眩を起こして車から落ち、その晩のうちに亡くなった。
頓子献(とんしけん)は病気が治り、予後を診てもらうと「まだ精がついておらず本復していない。たとえば奥様と励まれるような疲れの出ることをすれば、舌を数寸出した姿で死ぬでしょう」と忠告された。頓子献はそれを聞かず久々に会った妻と励み、3日後に舌を数寸出した姿で死んだ。
徐毅(じょき)を往診すると「昨日、劉租(りゅうそ)に鍼を胃に打ってもらってから咳が止まらず眠れない」と言われ「鍼が誤って肝臓に当たったのでしょう。日ごとに食事が進まなくなり5日で死にます」と診立て、その通りになった。
陳叔山(ちんしゅくざん)の2歳の子は下痢が止まらず衰弱していた。華佗は「母親が妊娠し、精気をお腹の子に取られているから母乳に栄養がない」と診立て、丸薬を与えると10日で治った。
彭城太守の夫人がサソリに手を刺された。華佗は熱いぐらいの湯を沸かし、その中に手を入れて、冷めないように湯を取り替え続けるよう命じると翌朝に治った。
梅平(ばいへい)は病により休職し故郷へ帰ろうとしたが、2百里手前で力尽き友人の家に逗留した。偶然訪ねた華佗は診察してやり「もっと早く私に会えていればここまで酷くならなかった。もう助からないが急いで帰れば家族に会える。あと5日の命です」と診立てた。すぐさま帰り5日後に亡くなった。
華佗が外出中、喉を詰まらせて医者に急ぐ患者と行き合った。診察してやり「ここに来る途中に団子屋があり、ひどく酸っぱいニンニクの和え物があったから3升(0.6L)飲ませよ」と命じた。飲ませると一匹の蛇を吐いて治った。患者は蛇を車の横にぶら下げて華佗の家へお礼に行った。軒先で遊んでいた華佗の子供は蛇を見て「お父さんに会ったんだね。それが病の原因だよ」と言った。華佗の部屋には同じ蛇が十匹ずつ束ねられてぶら下がっていた。
ある太守が病気になり「激怒すれば治る」と診立てた。華佗はそれを告げずに高額の医療費を請求し、何も治療せず去った挙げ句に太守を罵倒する手紙を残した。太守は激怒し捕まえて殺すよう命じたが、その息子は事情を聞いていたため追わなかった。華佗が捕まらずますます怒り狂った太守は黒い血を数升も吐き、平癒した。
ある人を診療し「開腹手術をする必要があるが、いずれにしろ寿命はあと10年で、この病気で早まることもない。10年我慢すればいいのだから(礼に背き)身体を傷つけなくともよいのでは」と言った。患者は痛みに耐えかねて手術を望み、痛みは消えたが10年後に亡くなった。
陳登(ちんとう)は胸がつかえ食事が進まなかった。華佗は「胃の中に数升の虫がいます。生ものを食べたのでしょう」と言い薬を飲ませた。3升ほどの虫を吐き出して治り、食べた刺し身はまだ形が残っていた。華佗は「3年後に再発します。その時そばに良医がいれば助かります」と言った。3年後に再発し、華佗がいなかったため亡くなった。
曹操は評判を聞いて華佗を召し出し常にそばに置いた。曹操は偏頭痛で発作が起こると心が乱れ目がくらんだが、華佗が横隔膜に鍼を打つとすぐ治まった。
李通(りつう)の夫人が重病になり「流産され胎児が残っている」と診立てた。李通は「以前に流産しもう胎児も取り上げた」と言ったが「まだ残っています」と華佗は譲らず、李通も納得しなかった。
百日後また重くなり華佗を呼ぶと「胎児は双子で、一人だけが取り上げられた。残ったもう一人は脊髄に固着し痛みを起こしている。薬を飲ませ鍼を打てば出てくる」と診立て、夫人は陣痛のように苦しみ、一尺ほどの死んだ胎児を生んで治った。
「華佗別伝」に曰く。
ある人が病気で足が萎え歩けなくなった。華佗は離れた場所から見ただけで「鍼も灸も薬も十分で診るまでもない」と言い、服を脱がせると背中に数十個の印を付けた。一見して規則性がなくバラバラで、そこに10回ずつ灸をするよう命じた。灸を終えるとその跡は脊髄を挟み墨を引いたようにまっすぐで、歩けるようになった。
華佗の手腕はこのように絶妙なものだったが、もともと士人の身分だったのに(当時は位の低い)医師として遇されることに不満を抱いていた。
曹操が重病にかかると「完治させるのはほとんど不可能ですが、根気強く治療すれば寿命は延ばせます。家に帰り書物と処方を取ってこなければいけません」と診立て、帰郷したきり妻の病を理由に戻らなくなった。
曹操は何度も手紙を送り、役人に命じて戻らせようとしたが華佗は応じなかった。曹操は「華佗の妻が本当に病気なら見舞いをやって休暇を認め、嘘なら逮捕して連れてこい」と命じた。逮捕され投獄された。
荀彧は「華佗の腕はまことに巧みで、人々の生命も彼の腕一本にかかっています」と助命嘆願したが曹操は「心配するな。こんな鼠のような輩が天下に一人きりのわけがない」と聞かず、拷問を命じた。
死を悟った華佗は獄吏に秘伝の医学書を渡そうとしたが、処罰を恐れて受け取られなかったため、自ら焼いた。そして獄死した。
曹操は偏頭痛が起こると「華佗はこれを治すことができたが、重んじられるためにわざと治さなかったのだ。生かしておいても結果は同じだった」と言った。
だが208年、寵愛する息子の曹沖(そうちゅう)が危篤になると「華佗を殺してしまったのが残念だ。この子をむざむざ死なせることになってしまった」と嘆息した。
かつて李成(りせい)は咳と吐血に苦しんだ。華佗は薬を飲ませ「これを飲めば治ります。18年後に再発し死の危険があるが、この薬があれば大丈夫です」ともう一つ与えた。
5~6年後、李成の親族が同じ病にかかった。その人は「お前は今健康だが私は死にかけている。その薬を分けてくれ。治ったら華佗にもらいに行く」と頼み薬をもらった。だが華佗は曹操によって殺され二度と手に入らず、李成は予告された18年後に病を再発させ亡くなった。
「華佗別伝」に曰く。
青龍年間(233~237)、劉景宗(りゅうけいそう)は華佗の4つの治療を振り返った。
中平年間(184~189)によく会ったが神のような腕前だった。劉勲(りゅうくん)の娘の足が7~8年も腫れたり治ったりしていて、華佗は米ぬか色の犬を一頭と良く走る馬を二頭求めた。馬と犬を縄でつなぎ、馬を交代させながら犬を疲れ果てるまで30里走らせた。さらに人に20里犬を引きずらせた。そして麻酔で娘を眠らせ、犬の腹を裂き、足の腫れ物の近くに置く。すると腫れ物の中から瞳がなく鱗が逆さまに生えた蛇が出てきて、快癒した。
ある患者は目眩が酷く頭を上げることも、物を直視することもできなかった。華佗はその人を裸にして逆さ吊りにし、濡れた布で全身を拭かせると血管が五色に輝き出した。血管を切開すると五色の血が流れ出し、赤色に戻ると降ろして治療し、その場で治った。
寒熱注病に苦しむ夫人を石桶の中に座らせ、冬11月なのに冷水を百杯かけさせた。7~8杯でもう死にそうになったが華佗は続けさせ、80杯になると熱気がもうもうと立ち昇り2~3尺の高さになった。百杯になると火で温めた寝台に寝かせて薬を与え、汗が引くと治っていた。
腹の片側が痛み、髪も眉も抜け落ちた人を診て「脾臓が半分腐っている」と言い、麻酔をかけて切開するとはたして脾臓は半分腐り原型を留めていなかった。患部を切り取り膏薬を傷口に練り込み、薬を飲ませると百日で治った。
呉普(ごふ)と樊阿(はんあ)という優れた二人の弟子がいた。
呉普は華佗のやり方に従って治療し、多くの人々を快癒させた。
華佗は彼へ「人の身体は働かせるのが肝要だが、極度に疲労させてはならない。身体を動かせば穀物の気は消化され、血流はスムーズになり、病気も生じようがない。戸の枢は回り続けているから腐らないのと同じだ。
だから仙人たちは導引(体操)を行い老化を防ごうとした。私も「五禽の戯」という5種の動物を真似た導引を考案した。調子が悪い時にはどれでもいいから一つ行えば汗をかく。そして具合の悪いところに薬を塗れば、身体は軽々とし食欲も湧く」と健康法を語った。
呉普はこれを実行したため、90歳を過ぎても目や耳は少しも衰えず、歯も全て揃っていた。
樊阿は華佗へ滋養強壮になる食物を尋ね、漆葉青黏散(しつようせいねんさん)を教えられた。これを服用したため、100歳を超える長寿だった。
「華佗別伝」に曰く、青黏はもともと仙人が服用しているのをある人が見つけ、華佗に教えたものだった。
華佗はすぐ樊阿にも伝えたが、樊阿は独り占めし誰にも教えなかった。
その後、樊阿が老齢になっても健康なのを怪しんだ人が問いただし、酔った拍子に教えてしまったため、薬方が広く知れ渡り、大変な効果があった。(『華佗伝』)
陳寿は音楽家の杜夔(とき)、占い師の管輅(かんろ)らとともに「方技伝」に入れ「まことに奥深く隔絶した巧みであり、非凡な優れた技術であった」と評した。
「演義」でも多くの逸話が紹介され、董襲(とうしゅう)、孫策、関羽らの治療も行った。没年は曹操の死の直前に変更され、疑心暗鬼に陥った曹操に殺される。「演義」では実際に侍医の吉平(きっぺい)に殺されかけているので無理もない。
また獄吏に渡そうとした医学書は受け取られたものの、獄吏の妻が災いを恐れて焼き捨てたことにされた。
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