何顒  義に厚い英傑



何顒(かぎょう)字は伯求(はくきゅう)
荊州南陽郡襄郷県の人(??~??)

後漢の臣。

若い頃に洛陽へ遊学し、後進ながら郭泰(かくたい)、賈彪(かひょう)と交友を結び太学で名を上げた。(『後漢書 何顒伝』)

「漢紀」に曰く、三人は同じ気質・好みを持ち揃って遊学した。(『荀攸伝』)

友人の虞偉高(ぐいこう)が父の仇を討てないまま病で危篤になり、代わりに仇討ちを依頼されると、その義に感じ入って仇を殺し、その首を虞偉高の墓に供えた。

陳蕃(ちんばん)・李膺(りよう)が政争に敗れると親交深かった何顒も宦官に陥れられ、姓名を変えて汝南郡・南陽郡へ逃亡し、行く先々で豪傑たちと親しくし、荊州・豫州で名声を高めた。
若き日の曹操を「漢王朝は滅びようとしている。天下を安んじるのはこの人だ」と、荀彧を「王佐の才がある」と評した。(『後漢書 何顒伝』)

若い頃の曹操は勝手気ままで品行を整えなかったが橋玄(きょうげん)と何顒だけが彼を評価した。(『武帝紀』)

袁紹とは奔走の友の契りを交わし、協力して洛陽へ侵入し、党錮の禁で投獄された人々を数多く救出した。(『後漢書 何顒伝』)

袁紹・張邈(ちょうばく)・何顒・呉子卿(ごしけい)・許攸(きょゆう)・伍瓊(ごけい)が奔走の友の契りを交わした。(『袁紹伝』)

「漢紀」に曰く。
毎年2~3回洛陽へ潜入し救出活動を行った。
当時、袁術が袁紹と名声を競っていたが、何顒は袁術とは付き合わなかったため大いに憎まれた。

「漢末名士録」に曰く。
袁術は大勢のいる席上で何顒を批判し「名声ある王徳弥(おうとくび)を無視している。貪婪放蕩で不純な許攸と親しくしている。郭泰・賈彪が貧窮しているのに肥えた馬に乗り道を練り歩いている」と3つの罪を数え上げた。
陶丘洪(とうきゅうこう)が「王徳弥は賢者だが世の難事を救う才は無い。許攸は不純だが危難に立ち向かい泥をかぶることを厭わない。何顒は善人の筆頭に王徳弥、危難を救う人物の筆頭に許攸を挙げている。そのうえ何顒は虞偉高のために仇討ちした義士だが、その仇は巨万の富を蓄える名士だった。もし何顒が痩せ馬にのって道で引っくり返っていれば、たちまちその仇の配下に殺されるだろう」と反論したが袁術は納得しなかった。
後年、袁術は宗承(そうしょう)に会った時も何顒を殺すと息巻いたが「あなたは英傑を厚遇して評判を天下に轟かせるべきだ」とたしなめられ、ようやく思い留まった。(『荀攸伝』)

党錮の禁が解かれると司空府に招かれ、三公の府が相談するといつも議長に推された。(『後漢書 何顒伝』)

大将軍の何進(かしん)は智謀の士として逢紀(ほうき)・何顒・荀攸(じゅんゆう)と結託した。(『後漢書 何進伝』)

「漢末名士録」に曰く。
三公の属官たちが会議を催すと何顒はこんこんと湧き出るように計策を次々と立て、誰もが到底及ばないと考えた。
北軍中侯に栄転し、董卓に長史に任じられた。(『荀攸伝』)

董卓は少帝を廃そうと考え、袁紹に相談したが逃げられた。
周毖(しゅうひ)・伍瓊・議郎の何顒らは裏で袁紹と内通していたため「袁紹は廃位という大事に関わるのを恐れただけです。下手に賞金首にして刺激すれば、代々の名家の袁氏は多くの味方を集めて挙兵するでしょう」と警告した。
董卓は袁紹を勃海太守に任じ、列侯して恩を売った。(『袁紹伝』)

董卓が実権を握ると長史を務めるよう迫られたが、病と称して固辞し、司空の荀爽(じゅんそう)・司徒の王允(おういん)らと董卓暗殺の計略を練った。
だが荀爽が没し、何顒も別件で逮捕され、憂いと憤りから病を得て没した。(『後漢書 何顒伝』)

荀攸・鄭泰(ていたい)・議郎の何顒・种輯(ちゅうしゅう)・伍瓊が董卓暗殺の計略を練ったが、決行直前に露見し何顒と荀攸は逮捕された。
何顒は心労と恐怖のあまり自害したが荀攸は泰然自若として変わらず、董卓が王允・呂布らに暗殺されたため助かった。(『荀攸伝』)

鄭泰は何顒・伍瓊とともに袁紹を渤海太守にするよう勧めた。
何顒・荀攸とともに董卓暗殺の計略を練ったが、露見して何顒・荀攸は捕らえられた。鄭泰は身一つで脱出し袁術のもとへ逃げたが、間もなく病没した。(『後漢書 鄭泰伝』)

後年、荀彧は従父の荀爽の遺体とともに何顒の遺体も引き取り、荀爽の塚の隣に葬った。(『後漢書 何顒伝』)

「演義」では曹操を評価する逸話と、少帝の即位に立ち会う場面にしか登場しない。