賈充 司馬一族の懐刀

賈充(かじゅう)字は公閭(こうりょ) 司隸河東郡襄陵県の人(217~282)
魏・晋の臣。 賈逵(かき)の子。
賈逵が晩年になってからの長男で、充閭(広い門庭)を構えることを願って名付けられた。(『晋書 賈充伝』)
228年(『賈逵伝』)、12歳で父を失い、服喪の孝行さで評判になった。父の爵位を継いで侯となった。
はじめ李豊(りほう)の娘の李氏(りし)をめとり賈褒(かほう)・賈裕(かゆう)の二人の娘が生まれた。
だが254年、李豊が反乱により処刑され、連座して李氏は強制移住となり離縁された。郭配(かくはい)の娘の郭槐(かくかい)を後妻に迎えた。
郭槐は非常に嫉妬深く、息子の賈黎民(かれいみん)が3歳の時、帰宅した賈充を乳母が賈黎民を抱いて出迎えると、賈黎民が喜ぶ様を見て乳母が夫と密通していると疑い、鞭で叩き殺した。なついていた賈黎民は乳母を失った悲しみから病没した。
後に次男が生まれたが、10ヶ月の時に全く同じことがあり、郭槐はまた乳母を殺し、次男も同様に死んだ。このため賈充には男子がなかった。
尚書郎になり法制と人事を担当し、提案はみな施行された。黄門侍郎・汲郡典農中郎将に移り、司馬師の大将軍府に参画し255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱討伐に貢献した。
帰還中に司馬師が重体に陥ると、賈充を残して諸軍を監督させ、功により350戸を加増された。
司馬昭の大将軍司馬となり、右長史に転じた。実権を握った司馬昭は方面軍の指揮官の反乱を恐れ、賈充に呉方面を守る諸葛誕の偵察をさせた。
賈充が「天下は曹氏から司馬氏への禅譲を願っている」と言うと諸葛誕は声を荒らげ「君は賈逵の子ではないか。魏の恩を代々受けているのになぜ社稷を他家に与えるのだ。もし都で何かあれば私は魏のために死ぬ」と言い、賈充は黙りこくった。
戻ると司馬昭へ「諸葛誕は早くから威名あり人々から死力を引き出しています。あなたに反抗するのは必定です。都に召して兵権を奪おうとすれば、あわてて決起して小さな災いになりますが、看過して準備期間を与えれば大きな災いとなります」と献策した。
257年、司馬昭はすぐに諸葛誕を司空に任じ、果たして諸葛誕は反乱した。賈充は包囲戦を提案し、翌258年に鎮圧すると司馬昭は自ら慰労した。賈充を残して後処理をさせ、爵位を宣陽郷侯に進め1千戸を加増した。
廷尉に移り、冤罪を防ぎ称えられた。
中護軍に移り260年、曹髦が司馬昭を討とうと挙兵した。賈充が防戦したが兵は皇帝へ刃を向けられず崩れかかり、成済(せいせい)にどうすればいいか尋ねられ「公(司馬昭)がお前達を養ってきたのは今日のためだ。何を戸惑うのだ」と殺害を指示した。
曹奐が即位すると安陽郷侯に移封され、1200戸を加増された。諸軍を統括し散騎常侍を加えられた。
264年、蜀を制圧した鍾会が反乱すると、関中・隴右諸軍事都督となり漢中へ出兵したが、到着前に鎮圧された。
この頃、軍事と国政は多難で賈充は朝廷の全ての機密に関与した。司馬昭に信頼され裴秀(はいしゅう)・王沈(おうしん)・羊祜(ようこ)・荀勗(じゅんきょく)らと腹心を務めた。
刀筆(書記・訴訟)の才に優れ上官の思惑を悟るのが得意だった。司馬昭が司馬師の子の司馬攸(しばゆう)にいずれは後を継がせようとすると、それが表向きの態度に過ぎないと見抜き、司馬昭の嫡子の司馬炎を褒めそやし、司馬攸より年長だから後を継いで当然だと勧めた。
265年、危篤に陥った司馬昭は「お前のことを最も知っているのは賈充だ」と司馬炎に伝えた。
司馬炎が王位を継ぐと衛将軍・儀同三司・給事中となり、臨潁侯に移封された。
帝位につくと車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射に転じ、魯郡公に封じられ、母の柳氏(りゅうし)を魯国太夫人とした。
五等爵を立てられると臨沂侯に封じられ、元勲として深く重用され俸禄と賞賜は誰よりも厚かった。
泰始年間(265~275)、巷間で「賈・裴・王は、国家の秩序を乱し、天下を救済する」という歌が流行った。魏の滅亡と晋の成立をはやしたものである。
司馬炎は大赦を行い、李氏も解放されると特例として賈充には正室を二人置くことが許された。柳氏も喜び李氏を迎えに行かせたが、郭槐は「あなたの立身出世は私のおかげでもあるのにどうして李氏を私と並べるのか」と激怒した。賈充は特例を与えられる程の功はないと辞退したが、実際は郭槐を恐れたのである。
また柳氏は節義を重んじ、賈充が成済に命令したことを知らず成済の不忠をしばしば罵倒したため、侍者は裏で笑った。柳氏が臨終の床に着くと遺言を聞いたが「李氏と復縁しなさい。これ以外に言うことはない」と言われ、賈充は言葉もなかった。
賈充らが定めた新法が公布されると広く受け入れられた。司馬炎は賈充をその筆頭として称え、子弟1人に関内侯と絹500匹を与え、賈充は固辞したが認められなかった。
後に裴秀に代わって尚書令となり、元のまま車騎将軍・散騎常侍を務めた。散騎常侍から侍中に移ったが母の柳氏が没したため官を辞して喪に服した。
司馬炎は黄門侍郎を送って慰問し、呉との戦が起こると60日で服喪を切り上げ復帰させた。
賈充の政治は支出を抑え官職の統廃合に励んだため司馬炎に感心された。文官に兵を持たせないよう求め、羊祜らが出撃すると自身も従軍を望んだがどちらも却下された。
自らの判断で人を批評し、推薦した者は最後まで面倒を見たため多くの人士に慕われた。かつて推薦した王恂(おうじゅん)に批判された時も推薦し続けた。支援した者が賈充より上の人物のもとへ去っても平然と付き合い続けた。ただし公正さはなく、もっぱら媚びへつらう者を好んだ。
任愷(じんがい)・庾純(ゆうじゅん)ら剛直で公正さを重んじる者には嫌われた。さらに賈充の娘が司馬攸の妃となると、後年に一族が幅を利かせるのを憂い、氐族・羌族の反乱に乗じて任愷は賈充に討伐させるよう勧め、使持節・都督秦涼二州諸軍事として都から出そうとした。朝廷の心ある者もみな賛成した。
賈充は罠と見抜き任愷を深く恨んだが対処法がなかった。ついに出撃の日となり、送別に来た荀勗に不満を伝えると「国の宰相でありながら一人の男(任愷)に陥れられるとは失策ですね。辞退するのは困難ですが、太子の司馬衷に娘を嫁がせれば逃れられます」と献策され、荀勗は自らその役を買って出た。
皇后の楊艶(ようえん)、荀顗(じゅんぎ)らも賛成し、娘の賈南風(かなんぷう)が無事に嫁いだ。折しも大雪により出兵が遅れており、賈充は赴任せずに済んだ。
羊祜も赴任に反対しており、司馬炎からそれを聞いた賈充は羊祜へ「初めて君が立派な人物だとわかった」と礼を言った。
270年、孫秀(そんしゅう)が呉から亡命してくると驃騎将軍に任じられた。司馬炎は賈充の車騎将軍を驃騎将軍より上の位に変更しようとしたが、賈充は固辞した。
司空に上り侍中・尚書令は元のままで兵も率い続けた。
郭槐は李氏に会ってみたいと考えたが、賈充は「彼女は才気がありお前は(みじめな思いをするから)行かないほうがいい」と言った。
義娘の賈褒が司馬攸に嫁ぐと、郭槐は王妃の母として威儀を盛んにして李氏に会いに行った。だが話すと郭槐は不覚にも膝を屈し、頭を2度下げてしまった。以後は賈充が外出のたびに李氏を訪ねるのではと怪しみ尾行させた。(※賈充は一度も訪ねなかった)
王妃となった賈褒は実母の李氏と復縁するよう賈充に迫った。この頃、反乱者の毌丘倹の孫娘が高官に嫁ぐなど前例が多かったため問題ないか担当官に検討させたが結論は出なかった。前妻のために家を築きこっそり通う者も多かったが、賈充は宰相として手本になるべきだとし、家は建てたが李氏を訪ねることはなく、二人の娘が号泣して頼んでも従わなかった。
賈充が出兵することになると、娘らは父が戻らないことを恐れ最後の機会だと考え、陣幕に飛び込み頭を地面に打ち付け血を流しながら復縁を懇願した。諸臣は王妃の賈褒が現れたことに仰天して席を立ち、賈充はひどく恥じて驚き、強引に連れ戻させた。
孫の賈南風が太子妃となると、司馬炎は李氏のような例は復縁を許さないと決断し、賈褒は怒りから病を得て没した。
末娘の賈午(かご)は宴会を覗き見て韓寿(かんじゅ)に一目惚れした。密かに部屋に招き、身軽な韓寿はいつも垣を飛び越えて忍び入ったため誰も気付かなかったが、賈充だけは娘がごきげんだと思った。
この頃、西域から珍しい香が献じられ、一度付ければ1ヶ月も匂いが続いた。司馬炎は賈充と陳騫(ちんけん)だけに下賜し、賈午はそれを韓寿に分けた。宴会のさなか韓寿からその匂いがしたため賈充は二人の交際に気付いたが、家の警備が厳重でどこから入っているのかわからなかった。
賈充はそこで夜中に盗賊が入ったと偽って各地を調べさせると「東北の角に狐狸が通ったような跡があります」と報告された。(それを手掛かりに)賈午の周囲の者を取り調べてすっかり白状させると、賈午には調査を黙ったまま韓寿と婚姻させてやった。
司馬炎が重病にかかると朝廷は太子の司馬衷ではなく司馬攸が後を継ぐことを期待した。夏侯和(かこうか)は賈充へ「あなたは二人の娘を司馬攸・司馬衷に嫁がせている。(支持する方を選べる立場だから)徳のある方を選びなさい」と司馬攸を支持するよう勧めたが、黙って答えなかった。
司馬炎は回復すると夏侯和を左遷し賈充から兵権を奪ったが、厚遇ぶりは変わらなかった。 太尉・行太子太保・録尚書事に転じた。
277年元日、日食があったが(慣例に背き)辞任を認められなかった。沛国が封地に追加されいよいよ特別扱いが酷くなり、朝臣は不快に思い目を逸らした。
278年、羊徽瑜(ようきゆ)が没し、夫の司馬師に合葬されると王恂は「司馬攸が詣でられなくなる」と反対したが、賈充は「礼の規定では嫡子(司馬炎)だけが詣でればよく、司馬攸は臣下として服喪すればよい」と言った。担当官は「子と臣下の双方の立場で服喪する賈充の建議は前例がない」と王恂を支持したものの、司馬炎は賈充の意見を採択した。
279年、呉討伐にあたり使持節・仮黄鉞・大都督として全軍の指揮を命じられた。賈充は後顧の憂いがあり、自身も耄碌していると辞退したが、司馬炎に「君が行かなければ私が出る」と返されやむなく受けた。
280年、王濬(おうしゅん)が武昌を突破すると賈充は「平定にはまだまだ時間がかかり、夏になって疫病が必ず流行るから全軍撤退すべきです。(討伐を主導した)張華(ちょうか)を殺してもなお天下に謝罪し切れません」と上表した。荀勗も賛成したが司馬炎は従わなかった。
上表を聞いた杜預(とよ)は「呉の平定は目の前に迫っています」と反対する使者を送ったが、都へ着く前に孫晧は降伏していた。
司馬炎は賈充に絹8千匹を与え8千石を加増した。従孫の賈暢(かちょう)を列侯し弟の賈混(かこん)・従孫の賈衆(かしゅう)にも加増した。
賈充は当初から討伐に反対し続けたため処罰を求めたが、司馬炎は凱旋した彼を罪に問うどころか自ら出迎えた。賈充は告成の礼(天下統一を天に告げる儀式)をするよう勧めたが司馬炎は固辞した。
駐屯中、突如として賈充が失踪したことがあった。昼寝していた配下の周勤(しゅうきん)は夢の中で賈充が100人ほどの手で小道に引きずり込まれるのを見た。
驚いて目を覚ました周勤は失踪を聞いて探し回り、夢で見た小道を見つけた。奥には役所があり、多くの兵が並び賈充は役人に叱責されていた。
役人は激しい声音で「お前は荀勗とともに我が子を惑わし、さらには孫をも惑わすだろう。任愷に退けさせようとし、庾純に罵らせたが行跡を改めない。今にも呉が平定されかかっているのに張華を殺せと言う。お前の愚昧さは全てこの通りだ。改悛しなければ罰を与える」と脅し、賈充は叩頭して血を流した。
役人は「お前が長生きし名臣と称えられているのは功績があったからだ。後継ぎは殺し、上の子は金酒で溺れさせ、下の子は枯れ木の下で追い詰めてやる。荀勗も同じ運命だ。初期の功績に免じて子孫は残してやるが、数世代で国は無くなる」と告げた。
周勤の意識は飛び元の場所へ戻った。賈充も戻っていたが憔悴して疲弊し、回復まで数日かかった。
282年、賈充は重体になり、印綬を返還し官を辞そうとしたが司馬炎は却下した。太子の司馬衷や宗室までが自ら見舞いに伺った。66歳で没した。
司馬炎は慟哭し、太宰を追贈し霍光・司馬孚(しばふ)と同等に葬らせた。石苞(せきほう)らとともに建国の功臣として廟庭に祀り武公と諡した。
郭槐は賈午と韓寿の子の韓謐(かんひつ)を賈黎民の子とし、賈充の後を継がせようとした。韓咸(かんかん)・曹軫(そうしん)は「男子がいなければ分家に後を継がせる習いはあるが、他家の子に継がせる法はない。賈充が爵位(後継ぎ)に執着しなかったのは、そうした過失を後世に残すのを厭うたためです」と諌めたが郭槐は従わなかった。
韓咸・曹軫は裁定を求めたが返答なく、郭槐は賈充の遺志だと述べた。司馬炎は「特例であり賈充ほどの功績が無ければ他に認めない」と条件付きで許可した。
諡号ははじめ(剛直な)秦秀(しんしゅう)が「荒」と悪い諡号を求めたが司馬炎は認めず、迎合した段暢(だんちょう)が「武」を勧めた。
没してから埋葬されるまでに2千万銭が贈られた。賈南風が実権を握ると賈充の廟に特別扱いし、母の郭槐を宜城君とした。郭槐が没すると「宣」と諡し(※晋の始祖の司馬懿と同じ諡号である)、人々は批判したが賈南風を恐れあえて物言う者はいなかった。
従孫の賈模(かも)は知略に優れ、賈充は深く信頼してかわいがり、事案があると相談すらした。晩年になると曹髦を殺したことを気に掛け、自分の諡号と列伝はどうなるだろうと憂い、賈模に「私の死後には目を伏せず是非を見極めてくれ」と頼んだ。
郭槐の叔父の郭彰(かくしょう)は賈充と親しく、郭槐とは兄妹のように親密だった。賈南風が専権を振るうと賈謐(かひつ ※韓謐)・郭彰が中心となり、人々は「賈郭」と並び称した。
娘らは李氏をともに葬りたいと願ったが賈南風に反対された。
300年、賈南風が誅殺されると合葬された。李氏の著した「女訓」は広く世に伝わった。
呉討伐の際に夢の役人に言われた通り、賈南風・賈午・賈謐は命を落とした。
賈南風を討った司馬倫(しばりん)が失脚すると賈充の功績に免じて従孫の賈衆が後継ぎを打診されたが、狂ったふりをして逃れた。その子の賈禿(かとく)が後を継ぎ以後も続いたが、永嘉の乱により死亡し国は除かれた。(『晋書
賈充伝』)
|