賈逵 不朽の名臣

賈逵(かき)字は梁道(りょうどう)
司隸河東郡襄陵県の人(174~228)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
魏の臣。
子供の頃から部隊の編成をして遊び、祖父の賈習(かしゅう)は「大人になったら指揮官になるに違いない」と言い、数万字の兵法を自ら伝授した。
郡の役人となり、絳邑長を代行した。
202年、袁尚(えんしょう)配下の郭援(かくえん)が河東郡を攻め、侵攻路の城邑は全て降伏したが、絳邑だけは抵抗した。郭援は攻略に手こずり、匈奴の単于(王)を呼び激しく攻撃した。陥落寸前となり、絳邑の長老らは統治を慕っていた賈逵の助命を条件に降伏した。
郭援は手腕を見込み賈逵を配下にしたいと考え、武器を突きつけ脅したが全く動揺せず、側近が無理やり頭を下げさせると「国家の高官が賊に頭を下げる道理などない」と怒鳴りつけた。郭援が激怒し処刑を命じると、賈逵を慕う官民が城壁に登り「賈逵を殺したら一緒に死ぬぞ」と叫んだ。側近も感心して助命嘆願し助かった。
賈逵は開戦前から「もし戦になれば皮氏(※地名)を占拠した方が勝つ」と考え、絳邑を包囲されかかると使者を出して皮氏を占拠するよう進言していた。このままでは間に合わないと思い、郭援の謀臣の祝奥(しゅくおう)を言葉巧みに迷わせ、進軍を7日間遅らせたため、皮氏の占拠は間に合った。
郭援の討伐後、茂才に推挙され澠池県令となった。
并州牧の高幹(こうかん)が反乱し、張琰(ちょうえん)が呼応した時、賈逵はそれを知らずに張琰に会っており、身を守るため同調したふりをし、策略を立ててやって信用させた。
澠池県の行政府のある城は防備が薄かったため、賈逵は援助を求め、裏では反乱者の情報を集めた。
城が改修されると挙兵し、反乱者を一気に処刑した。張琰の攻撃を防ぎ切り、討伐軍によって張琰は討たれた。
祖父が没したため官を辞して、後に司徒に招かれ掾となり司隸の軍事に参与した。
211年、馬超の討伐に向かう曹操は弘農郡に差し掛かると「ここは西方への街道の要所だ」と言い、賈逵に弘農太守を代行させ、引見すると非常に気に入り「天下の二千石(※太守)が全て賈逵なら何も心配することはない」と語った。
賈逵は徴兵の際に屯田都尉が逃亡兵をかくまっているのではと疑い探りを入れると、都尉は郡の管轄に入らない立場のため不遜な言葉を吐き、怒った賈逵に逮捕され脚を叩き折られた。越権行為により免職となったが曹操に丞相主簿に取り立てられた。
219年、劉備征伐に従軍し偵察に出ると、水衡都尉が数十人の囚人を護送しているのに出くわした。賈逵は戦時下であるとして重罪の者一人だけを処刑し他は釈放させた。曹操はその判断を褒め諫議大夫に任命し、夏侯尚(かこうしょう)とともに計略を司らせた。
220年、曹操が没すると葬儀を取り仕切った。子の曹彰(そうしょう)が駆けつけ魏王の璽綬がどこにあるか問うと、賈逵は決然と「太子(曹丕)が都におわし国の世継ぎは決まっており、あなたの質問することではありません」と言った。
曹丕は王位につくと、鄴の都は数万戸あり治安が悪かったため、賈逵を鄴県令とし、一月ほどで(鄴のある)魏郡太守に昇進させた。
曹丕が親征すると再び丞相主簿祭酒に任命された。
賈逵は以前、他人の罪に連座したことがあり、曹丕はそれを知ると「春秋時代の叔向は功績により十代先の子孫まで赦免された。ましてや賈逵の功績は自身のものである」と言った。
黎陽まで来た時、軍列を乱す者があったため、賈逵が斬り捨てて整えさせた。譙県に至ると豫州刺史に任命された。
当時、平定されたばかりで州郡の行政が行き渡らなかったため、高官の任命には徳よりも才能を重視し行状を正すよう意見した。
豫州でも兵曹従事が前の刺史の時から休暇を取り、賈逵の着任から数ヶ月後に帰ってきたりと乱れていたため、州の二千石以下の官吏から阿諛追従する者を一掃するよう上申した。
曹丕は「まことの刺史である」と称え、同様にするよう天下に布告し、関内侯に封じた。
豫州南部は呉と接していたが、賈逵が盛んに偵察し攻防両面の備えを整えたため侵攻されなかった。軍事はもちろん政治も優れ、治水を整え200里にわたる運河を築き「賈侯渠」と呼ばれた。
黄初年間(220~226)、呉征伐で呂範(りょはん)を撃破し陽里亭侯に進み、建威将軍を加えられた。
226年、曹叡が帝位につくと200戸を加増され400戸となった。
当時、孫権は豫州南方の東関に駐屯し、長江からは400里離れていた。豫州は国境を守るばかりで孫権は北方に不安がないため、東西から連携して攻められ敗北することが少なかった。
賈逵は長江への直通路を造り、孫権の本隊を脅かせば東西の連携を断ち切り、東関も落とせると進言し、駐屯地を南へ移した。曹叡は判断を称えた。
呉の張嬰(ちょうえい)・王崇(おうすう)が軍勢を引き連れ降伏した。(『賈逵伝』)
228年、賈逵は満寵(まんちょう)・胡質(こしつ)らを率い東関へ進撃し、曹休(そうきゅう)・司馬懿も別路から侵攻した。(※石亭の戦い)
曹休は呉の周魴(しゅうほう)が内応を望んでいると言い、敵地深くへ侵入し連携することを求めた。曹叡も司馬懿は軍を止めて(陽動し)賈逵・曹休は合流し周魴と連携するよう命じたが、賈逵はこれを罠と読み、水陸両面から侵攻し不測の事態に備えた。
200里進んだところで捕らえた敵兵が、曹休が敗れ孫権に退路を断たれたと吐いた。諸将は判断に迷ったが賈逵は「進退窮まり一日の内に全てが決まる。進んで敵の不意を突こう。救援を待っても退路を断たれていては何人いても役に立たない」と言い、倍の速度で進軍するとともに旗指物と陣太鼓を盛んにすると、呉軍は大軍と勘違いし撤退した。
もともと曹休との仲は険悪で、曹丕が賈逵に節(指揮権)を与えようとすると曹休が「彼は剛毅で、平素から将軍たちを侮り軽んじているから都督は務まらない」と讒言し取りやめさせたこともあったが、賈逵に命を助けられたのである。(『賈逵伝』・『周魴伝』)
病により危篤になると「孫権を斬ったとあの世で先帝(曹丕)に報告できないのが残念だ。葬儀のために何かを新調したりわざわざ直したりするな」と遺言し没した。「王沈魏書」に曰く、享年55。
粛侯と諡され、子の賈充(かじゅう)が後を継いだ。(『賈逵伝』)
同228年、満寵が豫州刺史を兼任したとあり、賈逵は石亭の戦いから間もなく没したと思われる。(『満寵伝』)
豫州の官民は賈逵のために祠を建て、青龍年間(233~237)に曹叡は自ら詣で「思い出すと悲しみがこみ上げる。生前は忠誠を抱いて勲功を立て、死後は慕われる不朽の人物である。天下にあまねく奨励せよ」と命じた。(『賈逵伝』)
王淩(おうりょう)は司馬朗(しばろう)・賈逵と親しく、後に兗州・豫州刺史になると先任の彼らの統治を見習った。(『王淩伝』)
陳寿は劉馥(りゅうふく)・司馬朗・梁習(りょうしゅう)・張既(ちょうき)・温恢(おんかい)・賈逵を同伝に収め「先代にただ監督するだけだったのと異なり、後漢末の刺史は諸郡を統括し行政をした。魏では彼らが評判を取り、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に通じ、威厳と恩恵が現れていたから、万里四方の地を引き締め、後世に語られたのである」と評した。
また「魏略」では賈逵・李孚(りふ)・楊沛(ようはい)がともに列伝されている。
「演義」でも曹彰を叱りつけたり、周魴の罠を看破する場面が描かれた。
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