夏侯淵 三日で五百里、六日で一千里

夏侯淵(かこうえん)字は妙才(みょうさい)
豫州沛国譙県の人(??~219)
魏の臣。
夏侯惇の族弟。
曹操が若い頃、代わりに重罪をかぶり、後に救出された。
「魏略」に曰く、当時の兗州・豫州は大混乱し、飢饉で夏侯淵は我が子を捨て、亡き弟の娘を助けた。
189年、曹操は挙兵すると夏侯淵を別部司馬・騎都尉に任じ、やがて陳留・潁川太守に昇進した。(『夏侯淵伝』)
「王沈魏書」に曰く、軍中では夏侯惇・夏侯淵を区別するため隻眼の夏侯惇は「盲夏侯」と呼ばれ、ひどく嫌がった。(『夏侯惇伝』)
200年、官渡の戦いでは督軍校尉を代行し、勝利すると兗州・豫州・徐州の兵站を取り仕切った。(遠征が続き)兵糧が欠乏していたが絶えず輸送したため勢いを取り戻した。(『夏侯淵伝』)
反乱した昌豨(しょうき)を張遼とともに攻めたが数ヶ月かかっても落とせず、撤退を検討したが旧知の張遼が単身で説得し降伏させた。(『張遼伝』)
また昌豨(しょうき)が反乱すると于禁(うきん)が討伐したが攻めあぐね、夏侯淵が後詰めし十余りの屯営を落とし降伏させた。典軍校尉となった。
「王沈魏書」に曰く、急襲を得意とし「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里」とうたわれた。
済南・楽安郡で黄巾賊の徐和(じょか)・司馬倶(しばぐ)が蜂起すると討伐して徐和を斬った。(『夏侯淵伝』)
徐和の討伐には臧覇(ぞうは)・呂虔(りょけん)も貢献した。(『臧覇伝』・『呂虔伝』)
209年、行領軍に任命され、諸将を指揮し廬江郡で反乱した雷緒(らいしょ)を討伐した。(『夏侯淵伝』)
211年、渭水の戦いにも従軍し、朱霊(しゅれい)を指揮して氐族を破り、楊秋(ようしゅう)を降伏させた。
さらに行征西護軍として徐晃を指揮し、太原郡で反乱した商曜(しょうよう)を討伐し、20余りの屯営を落とし討ち取った。(『武帝紀』・『夏侯淵伝』)
212年、曹操は鄴の都へ帰還し、夏侯淵に長安の守備を任せ朱霊・路招(ろしょう)を補佐に付けた。
劉雄鳴(りゅうゆうめい)を降伏させ、梁興(りょうこう)を討ち取り、博昌亭侯に封じられた。(『夏侯淵伝』)
梁興の討伐には鄭渾(ていこん)・張郃・徐晃も貢献した。(『鄭渾伝』・『張郃伝』・『徐晃伝』)
213年、馬超が涼州刺史の韋康(いこう)を包囲すると救援に赴いたが間に合わず、韋康は処刑され、夏侯淵も馬超に撃破され、氐族が蜂起したため撤退した。
214年、趙衢(ちょうく)・尹奉(いんほう)・姜叙(きょうじょ)らが蜂起して馬超を破り祁山に入ったが、馬超は張魯(ちょうろ)に兵を借り祁山を包囲した。
諸将は曹操の指示を待つべきだと言ったが、夏侯淵は「鄴の都までは往復4千里あり返事を待っていては間に合わない」と救援を決断し、張郃に5千の兵で先行させ、自身は兵站を務め後詰めとなった。
馬超は不利を悟って撤退し、夏侯淵はさらに韓遂(かんすい)の討伐に向かった。韓遂も戦わずして撤退し、本拠地の城まで20里に迫ったが「敵は精鋭で城も堅固だ。羌族の本拠地を襲えば、韓遂に味方する羌族は城から逃げ出すだろう。そうなれば籠城されても落とせるし、城から出てきて野戦を挑んでくれば韓遂を生け捕りにできる」と判断し、自ら軽装兵で羌族の本拠地を襲った。
多くの首級と捕虜を得て、予想通りに羌族は城から逃げ、韓遂は野戦を挑んだ。敵兵は多く諸将は陣営を築こうと言ったが夏侯淵は「遠征で兵は疲弊し、陣営を築いたら疲れ果てて長く戦えない」と急戦を挑み、韓遂を撃破した。
氐族も撤退・降伏し、周辺を制圧し、仮節を授けられた。(『夏侯淵伝』)
氐族の千万(せんばん)は馬超のもとへ逃げ、後に蜀へ降った。
「魏略」に曰く、阿貴(あき)は滅ぼされた。(『夏侯淵伝』・『東夷伝』)
さらに30年に渡り枹罕を制圧し王を名乗っていた宋建(そうけん)も1ヶ月ほどで討ち取り、張郃に河間郡も制圧させ、羌族も残らず降伏し隴右地方(涼州)は平定された。
曹操は「30年割拠した宋建を一度の戦で滅ぼし、関右地域を闊歩し向かうところ敵なしだった。「論語」で孔子が弟子の顔回へ「私達は及ばない」と言ったのと同じである」と激賞した。
長安へ帰還し、氐族・羌族を討伐した。(『夏侯淵伝』)
宋建の討伐には張既(ちょうき)・張郃も貢献した。(『張既伝』・『張郃伝』)
215年、漢中征伐では涼州の諸王・諸侯と官吏を引き連れ合流した。曹操は羌族と会見する時、いつも夏侯淵を脅しの材料に使った。
漢中を制圧すると行都護将軍に任じられ、張郃・徐晃とともに巴郡を平定した。
曹操は帰還にあたり夏侯淵を征西将軍に任命し、漢中の守備を任せた。(『夏侯淵伝』)
「孫資別伝」に曰く、曹操は危機に陥った夏侯淵を自ら救出し「南鄭(漢中)は天の牢獄だ。斜谷は500里続く石の洞穴だ」と嘆息した。(『劉放伝』)
張郃・徐晃・郭淮が補佐に付けられた。(『張郃伝』・『徐晃伝』・『郭淮伝』)
216年、領邑300戸を加増され800戸となった。(『夏侯淵伝』)
217年、法正(ほうせい)は「曹操は涼州・漢中を制圧しながら益州へ侵攻しませんでした。内部に差し迫った心配事があるからでしょう。夏侯淵・張郃には国家の将帥たる才略がなく勝てます」と進言し、劉備は漢中征伐を決断した。(『法正伝』)
218年、劉備が陽平関に布陣し、夏侯淵と対峙した。
219年、劉備は夜中に夏侯淵の陣の逆茂木(防壁)に火を放った。夏侯淵は張郃に東を守らせ、自身は南へ向かった。劉備は張郃を撃破し、夏侯淵が半数の兵を救援に送った隙をついて襲撃し、討ち取った。(※定軍山の戦い)
愍侯と諡された。
曹操は戦勝を重ねる夏侯淵を「指揮官たる者は勇気だけを頼りにせず、臆病でもあらねばならない。勇気を基本としつつも行動に移す時には智略を用いる。勇気だけに任せていては一人の敵の相手しかできない」といつも戒めていたが、その危惧が当たったのである。
「世語」に曰く、陣には子でまだ13歳の夏侯栄(かこうえい)がいた。側近は逃がそうとしたが「主君や肉親が危ない目に遭っているのにどうして自分だけ助かることができるか」と剣を振るい戦死した。(『夏侯淵伝』)
黄忠が夏侯淵を斬り、益州刺史の趙顒(ちょうぎょう ※趙昴か)も討ち取られた。(『先主伝』)
法正が攻撃を指示し夏侯淵を討ち取らせた。(『法正伝』)
全軍は動揺したが郭淮・杜襲(としゅう)が張郃を主将に推薦し落ち着かせた。
「魏略」に曰く、劉備は夏侯淵より張郃を評価しており、夏侯淵を討ち取っても「一番の大物が残っている。こんなことで喜ぶな」と戒めた。(『郭淮伝』・『杜襲伝』)
曹操の妻の妹をめとり、長男の夏侯衡(かこうこう)は曹操の姪をめとっていた。夏侯衡が爵位を継いだ。(『夏侯淵伝』)
243年、功臣の一人として曹操の霊廟前に祀られた。(『斉王紀』)
249年、次男の夏侯覇は粛清を恐れ蜀に亡命したが、魏に残された子は夏侯淵の勲功により死罪を減じられ流刑となった。
「魏略」に曰く。
200年、夏侯覇の従妹は張飛の捕虜となり妻にされた。(※いわゆる夏侯姫)
夏侯淵が戦死すると彼女は遺体を埋葬するよう願い出た。その娘は劉禅の皇后となり(※いわゆる星彩)夏侯覇が亡命してくると劉禅は自分の子を君の甥だと紹介した。(『夏侯淵伝』)
陳寿は夏侯惇・曹仁ら一族の有力者とともに列伝し「一族として高官となり重んじられ、君主を補佐し勲功を樹立し、揃って功労があった」とまとめて評した。
「演義」では初期から登場するが、最も輝いた反乱・涼州征伐がほとんど描かれないため出番の割に活躍は多くない。
弓の名手に設定される黄忠に討ち取られるためか自身も弓の名手として描かれる。
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