夏侯尚  閲覧注意



夏侯尚(かこうしょう)字は伯仁(はくじん)
豫州沛国譙県の人(??~225)

魏の臣。
夏侯淵の従子。

「王沈魏書」に曰く。
計略・智謀に優れたため曹丕に評価され、身分を超えて親しくした。(『夏侯尚伝』)

曹丕と曹植(そうしょく)が激しく後継者争いをした時、曹丕は礼に背いてまで荀彧にへりくだったが、荀彧の死後に子の荀惲(じゅんうん)は曹植と親しくし、また夏侯尚と不仲だったため、義兄弟(※荀惲の妻は曹丕の姉妹)ながら曹丕にはひどく憎まれた。(『荀彧伝』)

曹操が冀州討伐にあたって軍司馬に任じ、騎兵を率いた。
曹丕が五官中郎将となると文学(官名)になった。

216年、魏が建国されると黄門侍郎に昇進した。
代郡で蛮族が反乱を起こすと、曹彰(そうしょう)が討伐し、その参軍事を務め貢献した。(『夏侯尚伝』)

219年、賈逵(かき)は劉備征伐に従軍し偵察に出ると、水衡都尉が数十人の囚人を護送しているのに出くわした。戦時下であるとして重罪の者一人だけを処刑し他は釈放させた。曹操はその判断を褒め諫議大夫に任命し、夏侯尚とともに計略を司らせた。(『賈逵伝』)

220年、曹操が洛陽で没すると、夏侯尚が節を手に棺を守って鄴都へ帰還した。
前後の功績をあわせ平陵亭侯に封じられた。散騎常侍、中領軍と昇進した。
同年、曹丕が帝位につくと平陵郷侯に封じられ、征南将軍に上り荊州刺史・仮節・都督南方諸軍事となった。
上庸郡の攻撃を上奏し、上庸・西城・房陵の3郡を制圧し征南大将軍に昇進した。(『夏侯尚伝』)

上庸郡に駐屯する孟達(もうたつ)・劉封(りゅうほう)は不仲で、直前に関羽の救援要請を断って見殺しにしたこともあり、孟達は魏へ降伏した。曹丕は彼をいたく気に入り、上庸・西城・房陵の3郡を合併して新城郡を新設しその太守とした。
夏侯尚・徐晃・孟達が攻撃し、さらに西城太守の申儀(しんぎ)が裏切ったため劉封は敗走した。(『劉封伝』)

「魏略」に曰く。
曹丕は後継者争いで曹植を担ぎ、曹丕陣営へ讒言を仕掛けた丁儀(ていぎ)に自害を命じた。丁儀は自害できず中領軍の夏侯尚へ叩頭して慈悲を乞うた。夏侯尚は涙を流したが助けられず、投獄の末に処刑された。(『陳思王植伝』)

曹丕は夏侯尚へ「君は腹心であり、特別な任務を授けられ、必死の働きに値する恩寵と寵愛を受けている。配下には刑罰を行い恩賞を施し人を殺し人を生かせ」と詔勅を下した。夏侯尚は蔣済(しょうせい)にもそれを見せた。
蔣済は都へ赴き、曹丕に天下の様子を尋ねられると「特に良いことはありません。亡国の言葉があるだけです」と言った。
そして顔色を変えた曹丕へ「刑罰を行い恩賞を施すとは尚書(書名)にある天子だけが用いる戒めの言葉です。古人は慎重で戯れに用いませんでした」と諫言した。曹丕は納得し、詔勅を撤回した。(『蔣済伝』)

当時、孫権は魏に臣従していたが夏侯尚は討伐の準備を怠らずにいた。
222年、曹丕は自ら宛へ進駐し、夏侯尚に諸軍を統率させ曹真(そうしん)とともに江陵城を攻めた。諸葛瑾(しょかつきん)は長江を挟んで布陣し、中洲に陣取り長江には水軍を待機させた。
夏侯尚は夜中に1万の兵を率いて下流を渡り、挟撃を仕掛け大勝した。江陵城を包囲したが疫病が大流行したため曹丕は撤退させた。(『夏侯尚伝』)

張郃は別軍を率い中洲の砦を奪った。文聘(ぶんぺい)は夏口に駐屯し敵を撃退した。徐晃も包囲に加わった。(『張郃伝』・『文聘伝』・『呉主伝』)

江陵城の攻撃にあたり夏侯尚は中洲に布陣し、浮き橋を作ろうとした。
董昭(とうしょう)は「武帝(曹操)は智勇ともに人並み外れながら敵を侮りませんでした。夏侯尚は敵を侮って退路を考えず兵を狭い浮き橋に集めようとしています。孤立すれば中洲の兵は全て寝返るでしょう。また長江の水も増水し氾濫の危険があります」と上奏した。
曹丕は即座に撤退を指示したが、危惧通りに退路が一本しかなかったため追撃で痛手を被った。10日後には長江も突如として増水し、曹丕は「なんと明晰な判断か。張良・陳平が対処したとしてもこれ以上ではない」と董昭を激賞した。(『董昭伝』)

夏侯尚は3万の兵で浮き橋を築いた。救援に赴いた諸葛瑾・楊粲(ようさん)は手立てがわからず、魏軍は次々と中洲へ渡った。
潘璋(はんしょう)は「魏軍は上り調子で、長江も水嵩が低くまだ戦うべきではない」と言い、密かに巨大なイカダを作り、増水したら火を放って浮き橋に突っ込ませ焼き払おうと企てた。夏侯尚はそれを察知して撤退した。(『潘璋伝』)

江陵城内では疫病が流行り戦える兵は5千人しかいなかった。だが守将の朱然(しゅぜん)は隙あらば打って出て攻め破り、6ヶ月に渡って守り抜き、夏侯尚は諦めて撤退した。朱然の名は魏にも鳴り響いた。(『朱然伝』)

領邑600戸を加増され1900戸となり鉞を賜り荊州牧に上った。
荊州は戦乱が続いて荒廃し果て、山越や呉と隣接していたため、多くの民が江南へ移住していた。夏侯尚は上庸郡から道路を通し、700里に渡って軍を進めて慰撫し、5~6年のうちに山越や蛮族から数千家が帰順した。

224年、昌陵郷侯に改められた。
夏侯尚には愛妾がおり、正室をないがしろにしていた。曹丕はその正室が一族の娘だったため憤り、愛妾を殺させた。
夏侯尚は悲嘆の余り錯乱し、愛妾を墓から掘り起こしては顔を見る有様だった。曹丕はさらに腹を立て「杜襲(としゅう)が彼を軽蔑するのももっともだ」と言ったが、曹操の代からの重臣であり恩寵は薄れなかった。(『夏侯尚伝』)

杜襲はかつて「夏侯尚は人に益を与えられる友ではないから特別に待遇する価値はない」と曹丕へ忠告していた。当時は酷く不愉快に思ったが、この時に思い出したのである。(『杜襲伝』)

225年、重体になり都へ帰還した。曹丕は(さすがに反省し)たびたび家を訪ねては手を握って涙を流した。
そのまま没し、悼侯と諡された。子の夏侯玄(かこうげん)が後を継いだ。甥の夏侯奉(かこうほう)にも領邑から300戸分けられ、関内侯に封じられた。

「王沈魏書」に曰く。
曹丕は「夏侯尚は若い頃から私の側近く仕え、真心を尽くし忠節を捧げた。一族ではないが肉親も同然である。宮中では腹心として、出征しては爪牙として働いた。智略は深遠俊敏、策謀は人並み外れていたが不幸にも早逝した。運命はどうしようもないものだ」と詔勅を下し、征南大将軍・昌陵侯を追贈した。

254年、夏侯玄は反乱に加担し三族皆殺しにされたが、正元年間(254~256)、夏侯尚の功績を惜しみ、その従孫の夏侯本(かこうほん)が列侯され、後を継いだ。(『夏侯尚伝』)

「魏略」に曰く、弟の夏侯儒(かこうじゅ)も曹彰の司馬、征南将軍、都督荊豫州諸軍事と兄の後をたどるように重職を歴任した。(『張既伝』)

「魏略」に曰く。
孟達は魏に降り厚遇されたが、親しくしていた曹丕・夏侯尚・桓階(かんかい)が揃って同時期に没してしまい、立場を危惧して蜀へ帰参しようとし、司馬懿に討たれた。(『文帝紀』)

243年、建国の功臣の一人として曹操の霊廟の前に祀られた。(『斉王紀』)

陳寿は夏侯惇・曹仁ら一族の有力者とともに列伝し「一族として高官となり重んじられ、君主を補佐し勲功を樹立し、揃って功労があった」とまとめて評した。

夏侯惇・夏侯淵らとともに列伝される重臣だが「演義」では脇役どまりで、初登場は史実では参戦していない定軍山の戦い。捕虜にされた挙げ句に黄忠の矢を背中に受けた。
上庸郡の制圧では活躍したが、江陵郡の戦いでは史実にいない陸遜が出てきたため大敗した。
また厳顔(げんがん)に斬られるためだけに作られた架空の兄の夏侯徳(かこうとく)が登場する。

「横山三国志」ではガウンしか着ていない背中に深々と矢が刺さって倒れ、夏侯淵に「あっ夏侯尚! ぬうう、かかれ!」と叫ばれ、どう考えても戦死したと思われたが、数年後の上庸の戦いの時にひょっこり復帰して読者を驚かせた。が、復帰の際に2コマだけ姿を見せただけで以降は全く登場しない。