郭嘉 曹操に最も愛された鬼才

郭嘉(かくか)字は奉孝(ほうこう)
豫州頴川郡陽翟県の人(170~207)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
魏の臣。
はじめ袁紹に仕えたが、参謀の辛評(しんぴょう)・郭図(かくと)へ「袁紹は周公旦の真似をし士人にへりくだるが人物を使う機微を知らない。色々やろうとするがおろそかで、策略を好むが決断力がない。天下の大難を救い、王者の事業をなすことはできない」と言い立ち去った。
この頃、参謀の戯志才(ぎしさい)を亡くした曹操は「計略を相談できる相手がいない。汝南・潁川郡は人材の宝庫だが、戯志才の後を継いでくれる者はいないか」とぼやき、荀彧は郭嘉を推薦した。引見すると「私に大事を完成させてくれるのはこの男だ」と惚れ込み、郭嘉も「まことに我が主君だ」と喜び、司空軍祭酒に任じられた。(『郭嘉伝』)
199年、呂布を討伐し3度撃破したが、籠城され兵も疲弊していたため曹操は帰還しようとしたが、荀攸(じゅんゆう)・郭嘉は「呂布は勇猛だが智謀がありません。3連敗し気力も衰えていて、指揮官が衰えれば士気も上がりません。参謀の陳宮(ちんきゅう)は智恵はあるがグズで、呂布の気力が回復せず、陳宮が策を立てる前に攻めれば攻略できます」と進言した。
水攻めを行い、呂布・陳宮を捕らえて斬った。(『荀攸伝』)
同年、袁術は勢力を失い、袁紹を頼って落ち延びようとした。
曹操は劉備・朱霊(しゅれい)に追撃させて阻止し、袁術は病没した。程昱(ていいく)・郭嘉はそれを聞くと「私(程昱)は先に劉備を殺すべきだと言いましたが公(曹操)は聞き入れず、我々は理解に苦しみました。劉備に兵を貸せば必ずや反乱します」と忠告し、曹操は後悔して追わせたが、間に合わず劉備は挙兵した。(『武帝紀』・『程昱伝』)
200年、曹操が自ら劉備を征伐しようとすると諸将は袁紹に背後を襲われるのを恐れたが「劉備は傑物で今すぐ攻撃しなければ後の災いとなる。袁紹は志は大きいが機を見るに敏ではなくきっと動かない」と言い、郭嘉も同意した。
劉備は撃破され、袁紹のもとへ逃げた。(『武帝紀』)
同年、曹操と袁紹が官渡の戦いを始めると、江東を制圧した孫策は許都への襲撃を目論んだ。人々は恐れおののいたが、郭嘉は「孫策は江東を併呑したばかりで、しかも配下に慕われた英雄豪傑を多く殺しました。それなのに孫策は報復を警戒しておらず、百万の兵を持ちながら野原を一人で歩いているのと同じです。もし刺客が襲えば、一人でも十分に戦えます。私が思うに彼は必ず匹夫の手に掛かって死ぬでしょう」と言った。
間もなく孫策はかつて殺した許貢(きょこう)の残党に殺された。
官渡で袁紹を破り、子の袁譚(えんたん)・袁尚(えんしょう)もたびたび撃破した。諸将は勢いに乗り袁氏の勢力を一気に平らげようと言ったが、郭嘉は「袁紹はこの二人の子をかわいがり、後継者を決めませんでした。彼らには郭図・逢紀(ほうき)という謀臣がおり、必ず争い始めるが、我々が攻撃すれば助け合ってしまいます。荊州の劉表(りゅうひょう)を攻める構えを見せて牽制し、情勢を見極めてから攻撃すれば一挙に平定できます」と言い、曹操も同意した。
袁譚・袁尚は予想通り争い始め、敗れた袁譚は曹操に降伏を願い出た。(『郭嘉伝』)
袁譚の使者の辛毗(しんぴ)は、和睦を受け入れず荊州征伐に向かう気配を感じ郭嘉に相談した。郭嘉が口利きして曹操に目通りし、辛毗はとうとうと和睦すべき理由を論じ、承諾させた。(『辛毗伝』)
曹操は袁尚の本拠地の鄴を陥落させ、返す刀で袁譚も斬り冀州を平定した。
郭嘉は洧陽亭侯に封じられた。
袁尚は兄の袁煕(えんき)とともに三郡烏丸のもとへ逃げ、曹操は追撃しようとした。諸将は劉表が客将の劉備に許都を襲わせないかと危ぶんだが、郭嘉は「蛮族(三郡烏丸)は遠隔地にいるから油断しており、急襲すれば滅ぼせます。袁紹は彼らや民に恩を売っていて、袁尚・袁煕は生きており、我々は河北を平定したばかりで民はなついていません。(劉備を恐れて)南へ向かえば、蹋頓(とうとん)ら烏丸は袁尚とともに決起し、河北を奪い返します。劉表はただ座って議論するだけの人物で、劉備を制御できないとわきまえており、劉備も軽々しく危険を冒さないでしょう。許都を空にして遠征しても心配いりません」と言い、曹操も同意した。
易まで至ると郭嘉は「兵は神速を尊びます。このまま行軍すれば輜重隊が増えて進軍は遅くなり、その間に要地を抑えられ防備を固められます。軽装の兵だけで先行させ急襲しましょう」と進言した。
曹操は自ら敵の本拠地へ襲撃を掛け、蹋頓ら烏丸の諸王を斬った。袁尚・袁煕は遼東太守の公孫康(こうそんこう)のもとへ逃げ、殺された。
郭嘉は深く計略に通じ、物事の真実をつかんでいた。曹操は「奉孝だけが私の意図をよくわきまえている」と字で親しく呼んだ。
陳羣(ちんぐん)は品行が悪いと彼をたびたび弾劾したが、郭嘉は平然として意に介さず、曹操は陳羣も公正であると二人を一層気に入った。
だが烏丸征伐から帰還すると危篤となり、そのまま没した。享年38。
曹操は葬儀の席で荀攸らに「諸君は私と同年輩だが、奉孝だけが一番若かった。天下を平定したら彼に後事を託そうと思っていた。これが運命だろうか」と深く悲しんだ。
朝廷へ「郭嘉は私に仕え11年、重大な議論や敵を前にするたび変化に対処しました。私の策略がまだ決まらないうちに彼はやすやすと処置を考えていたものです。天下平定に彼の功績は多大です。不幸にも短命で事を成就できず、思い起こせば忘れることができません。800戸を加増し1000戸とすべきです」と上奏した。
貞侯と諡され、子の郭奕(かくえき)が後を継いだ。
208年、赤壁の戦いで敗れた曹操は「奉孝がいれば私をこんな目に遭わせなかっただろう」と嘆息した。(『郭嘉伝』)
262年、功臣として曹操の霊廟前に祀られた。(『陳留王紀』)
243年に数多くの功臣が同様に祀られたが郭嘉は抜けており、裴松之は「程昱が入ったのに郭嘉が入らず、鍾繇(しょうよう)を荀攸(※翌年に祀られた)より優先し、典韋が入り許褚が入らないのは理解し難い」と指摘する。(『斉王紀』)
陳寿は程昱・郭嘉・董昭(とうしょう)・劉曄(りゅうよう)・蔣済(しょうせい)をともに列伝し「才能・知略に優れた世の奇士である。清潔さや徳行では荀攸に劣るが、はかりごとに掛けては肩を並べる」と評した。
また蜀の法正(ほうせい)を魏でたとえれば程昱・郭嘉の同胞と評した。
「演義」や他の創作でも同様に作中屈指の名軍師として活躍する。
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