賈南風 最もやりたい放題した女

賈南風(かなんぷう)字は不明
司隸平陽郡襄陵県の人(257~300)
司馬衷の皇后。 賈充(かじゅう)と郭槐(かくかい)の娘。 別名は賈旹(かじ)。
司馬炎ははじめ衛瓘(えいかん)の娘を太子妃にしようとしたが、母の王元姫や賈充夫妻に賈家の娘を勧められた。
司馬炎は「衛瓘の家は賢く、子が多く、美しく、長身で、色白の5つの長所がある。賈充の家は嫉妬深く、子が少なく、醜く、短身で、色黒の5つの短所がある」と渋ったが王元姫が強く勧め、荀顗(じゅんぎ)・荀勗(じゅんきょく)も揃って称えたため押し切られた。
はじめ妹の賈午(かご)をめとる予定だったが、司馬衷の1歳下で小柄すぎて婚礼衣装も着られず、賈南風が嫁いだ。(『晋書 恵賈皇后伝』)
賈充が(謀略により)出兵させられることになると、荀勗は馮紞(ふうたん)に「賈充が遠ざけられたら我々は権勢を失う。賈充の娘を太子と婚姻させられれば自ずと取りやめさせられる」と言い、二人で司馬炎を訪ね賈南風を才色兼備と称え太子の司馬衷と婚姻させた。
賈充の出兵は取りやめられ、彼らは忠義ある人々に憎まれ、媚びへつらいの誹りを受けた。(『晋書 荀勗伝』)
272年、太子妃となったが嫉妬深く謀略や偽りを好み、司馬衷は恐れてほとんど訪ねなかった。
司馬炎は司馬衷が暗愚なことを不安に思い、和嶠(かきょう)らも危ぶんでいたため試験を行った。賈南風はひとを雇い回答を作らせたが、張泓(ちょうこう)は「無学な太子(司馬衷)がこんなに故事を引けるわけがなく、替え玉が露見したらますます評価が下がります。意見だけを書くべきです」と進言した。
賈南風は大いに喜び「適度な答案を作れ。一緒に富貴になろう」と誘い、張泓の作った答案を司馬衷に書き写させた。
司馬炎は騙されとても喜んだ。見せられた衛瓘は動揺し、人々は衛瓘は司馬衷には回答できないと予測していたと気付いた。賈充は賈南風に「衛瓘の老いぼれはお前の家を没落させようとしている」と警告した。
残虐な性格で何人も自ら殺した。妊婦に戟を投げつけ刺された胎児が地に落ちることもあった。司馬炎は激怒し廃位しようとしたが、側室の趙粲(ちょうさん)は「年若い婦人に嫉妬は付き物です。年齢を重ねれば治ります」と言い、楊珧(ようちょう)も「賈充の貢献をお忘れか」とたしなめ荀勗も必死に弁護したため事なきを得た。(『晋書
恵賈皇后伝』)
荀勗・馮紞の陳情により廃位は取りやめられた。人々は荀勗が国を傾け害悪を流す様は魏代の孫資(そんし)・劉放(りゅうほう)の同類だと蔑んだ。(『晋書
荀勗伝』) 荀勗・馮紞は一か八かで無理を押し通し賈南風の廃位を阻止した。(『晋書 馮紞伝』)
司馬炎は廃そうとしたが皇后の楊芷(ようし)が「父の賈充は元勲で数世代は特別扱いするべきです。嫉妬深いだけでは帳消しになりません」と反対したため取りやめた。
しかし賈南風はしばしば楊芷に戒め注意されたため、助けられたことも知らず逆恨みした。(『晋書 武悼楊皇后伝』)
290年、司馬衷が即位すると皇后に立てられた。4女に恵まれた。
暴戻は日に日に酷くなり、族兄の賈模(かも)、従舅の郭彰(かくしょう)はともに自らの才覚で司馬繇(しばよう)・司馬瑋(しばい)とともに国政に関与していたが、ここに族子の賈謐(かひつ)を加えようとした。
見かねた司馬繇は賈南風の廃位を企んだが、司馬亮(しばりょう)・衛瓘が先手を打って帯方郡へ左遷し、さらに司馬瑋の兵権を奪おうとした。賈南風はそれに乗じ司馬瑋に詔勅で司馬亮・衛瓘を誅殺させた。
賈模さえも恐れをなして裴頠(はいき)・王衍(おうえん)と賈南風の廃位を計画したが、王衍が怖気づき中止された。(『晋書 恵賈皇后伝』)
賈南風は賈謐と話し合い、張華(ちょうか)は策略に秀でるが野心は持たず貧しい出自であり、反乱の懸念が無いから政治を委ねようと考えた。相談された姻戚の裴頠は元より張華を重んじていたため深く同意し、かくして暗愚な司馬衷と残虐な賈南風を擁しながら張華が治めたために国内は落ち着いた。
張華は皇后の一族が専横するのを恐れ遠回しに諌め、凶悪で嫉妬深い賈南風も彼には敬意を払って尊重した。(『晋書 張華伝』)
291年、賈南風の凶暴さは度外れており楊駿(ようしゅん)を陥れて誅殺した。
娘の楊芷も一切の意思表示をできず、矢文を城外へ飛ばし助けを求めたが、これが露見し反逆者の一味とされた。
永寧宮へ移送され、司馬衷のはからいで実母の龐氏(ほうし)には会えたが、賈南風は群臣らを利用して楊芷が反乱を企てていると司馬衷に吹き込み、身分を庶民へ落とすよう勧めた。
張華らは故事を引き太后から皇后へ落とすだけでよいと反対したが、司馬晃(しばこう)らが強硬に主張した。司馬衷は渋り、龐氏の処刑にもはじめ同意しなかったが結局押し切られた。
楊芷は母と抱き合って泣き叫び、髪を切り土下座し「妾」と称してまで助命嘆願したが賈南風は会いさえしなかった。
翌292年、側近も何もかも奪われ餓死した。享年34。
賈南風は怪しげな巫術を信じており、楊芷があの世で司馬炎に訴えないようさまざまな呪術を施した。(『晋書 武悼楊皇后伝』)
賈南風はいよいよ好き勝手に振る舞い、程拠(ていきょ)とともに荒淫で知られた。
都で盗難事件があり美少年の小使いが分不相応な衣服を持っていたため疑われた。彼は「ある時、老婆に「病人がいるが少年の助けを得れば治ると占われた」と頼まれ家についていった。立派な屋敷で35歳ほどの小柄で色黒の、眉尻に傷のある女に迎えられて数日間歓待され、お土産にこれをもらった」と供述した。
女は賈南風だと気づいた役人は釈放した。
同様に美男子が何人も連れ込まれては(口封じに)殺され、たまたまこの少年は寵愛されたため無事だったのである。
娘の河東公主(かとうこうしゅ)が病気になると、占い師に言われるがまま大赦を行った。
ワラを腹に入れて身ごもったと偽り、甥の韓慰祖(かんいそ)を実子に仕立て、喪中だったから公表が遅れたと言い訳した。そして賈謐と共謀し太子の司馬遹(しばいつ)を廃し韓慰祖に代えようとした。
この頃、都で「南風が黄砂を吹き飛ばし、はるかに魯国を望み険しく高い。進んで3ヶ月で家を滅ぼす」という童謡が流行った。
母の郭槐は司馬遹をかわいがり、賈南風に実子のように慈愛を注げと指導し、賈謐もきつく叱ったが従わなかった。
やがて郭槐は重病になり、賈南風はまたも占い師の言うがまま母の封地を変え、自ら10日あまり看病した。司馬遹も医者を連れて見舞いに出向き、郭槐は臨終の床で賈南風の手を取り司馬遹を愛するよう切実に命じ、「趙粲と賈午は必ずあなたを脅かす。決して話してはならない」と遺言した。
賈南風は全く従わず趙粲・賈午と結託し専制を続け、司馬遹への迫害は顕著となり、人々から大いに恨まれた。
宦官の董猛(とうもう)は賈南風に信頼され、楊駿から衛瓘に渡る誅殺の全てに関わり兄弟揃って列侯されたため、同様に恨まれた。(『晋書
恵賈皇后伝』)
司馬遹の側近の劉卞(りゅうべん)が廃位の計画を張華へ伝えると「私は聞いていない」と信じなかった。劉卞は「自分はあなたに抜擢され恩人と思っているのに疑うのか」と詰め寄り、張華の命令さえあれば賈南風をすぐにも拘束できると請け負った。だが張華は「君主と太子の父(司馬衷)に背き成功しても罪は免れず、皇后の一族は朝廷に満ちており簡単なことではない」と反対した。
劉卞は後に左遷されると賈南風に誅殺されることを恐れ自害した。(『晋書 張華伝』)
299年、賈南風は司馬遹を呼び出し酒を飲ませて泥酔させた。名文家の潘岳(はんがく)にあらかじめ用意させた、天への祈りにも司馬遹の野心にも読める文章を前後不覚の司馬遹に無理やり書き写させた。酔って文字は半分も形になっていなかったが賈南風が修正した。
後日、朝廷でその文書を示し司馬遹の処刑を訴えた。張華は慎重論を唱え、裴頠が筆跡が司馬遹のものか疑うと、賈南風は司馬遹の普段の文書を10通ほど取り出し、見比べさせると一致していた。
夕刻を過ぎても議論は終わらず、賈南風らは張華は意思を曲げないと処刑を諦め、司馬遹の廃位で話を収めた。(『晋書 張華伝』・『晋書
愍懐太子伝』)
300年、司馬倫(しばりん)は賈南風を廃位し司馬遹を復位させようと企んだが、賈南風は宮女を質素な衣服で変装させて各地に潜伏させており、計画を知って司馬遹を殺し、望みを断った。
司馬倫は母が賈南風と険悪な司馬冏(しばけい)と結託し、司馬冏を宮殿に入らせ廃位を迫った。詔勅だと聞くと賈南風は「詔勅は私から出るものだ。そんな物があるはずない」と驚き、司馬衷に「私を廃位すればあなたも廃位される」と翻意を迫った(が聞き入れられなかった)。
司馬冏から司馬肜(しばゆう)・司馬倫が首謀者だと聞くと「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきなのに尾に繋いでしまった」と嘆いた。賈謐は先に殺されており、死体を見ると思わず声を上げたがすぐ泣き止んだ。
司馬倫は詔勅を偽造し毒酒で賈南風を殺した。在位11年、趙粲・賈午、その夫の韓寿(かんじゅ)、董猛らも誅殺された。(『晋書 恵賈皇后伝』)
司馬倫に憎まれていた張華・裴頠も殺された。(『晋書 張華伝』)
|