桓範  智嚢(?)



桓範(かんはん)字は元則(げんそく)
豫州沛国の人(??~249)

魏の臣。
「曹爽伝」に附伝される。

「魏略」に曰く。
家は代々の名家だった。
建安年間(196~220)末期に丞相府に入った。
220年、羽林左監となり、学問があるため王象(おうしょう)らとともに「皇覧」の編纂にあたった。
曹叡の代になると中領軍・尚書になり、征虜将軍・東中郎将・使持節都督青徐諸軍事に上り下邳に駐屯した。(『桓範伝』)

中領軍の桓範は徐宣(じょせん)を「忠義にして品行正しく、正直・誠実・清潔・典雅にして独立独歩、確固として揺るがず、国家を担う節義を持ち、どの任地でも職務に相応しい働きを示した」と推挙し、徐宣は尚書左僕射に任じられ、後に侍中・光禄大夫も加えられた。(『徐宣伝』)

「魏略」に曰く。
徐州刺史の鄭岐(ていき)といさかいになり、節を使い(※使持節は刺史ら2千石以下の官吏を処刑できる)殺そうとしたが、鄭岐の上奏により桓範に非があるとして罷免された。
後に兗州刺史に復帰したが以前の官位に及ばず気が晴れなかった。
さらに冀州牧に転任になると噂を聞くと、冀州はかつて下位だった呂昭(りょしょう)に管轄されており、妻の仲長(ちゅうちょう)に「諸卿になり三公に拝礼するならまだしも、呂昭に頭を下げるなどごめんだ」と愚痴った。
妻は「あなたは以前、鄭岐を殺そうとして、あなたの下で働くのは難しいと皆に思われました。呂昭に頭を下げるのは屈辱だと言われるなら、あなたの上で働くのも難しいということですね」とからかった。
痛い所を突かれた桓範はカッとなり刀の柄で妻の腹を突き、流産させてしまった。病と称して冀州牧を辞退した。
正始年間(240~249)、大司農に任命された。尚書の頃に有能だと評判を取ったが、大司農としても清潔かつ簡明だと評価された。(『桓範伝』)

「魏略」に曰く。
許允(きょいん)の妻の阮氏(げんし)は聡明だが容貌は醜く、それを知らずに結婚した許允は愕然とし、妻の部屋に入ろうともしなかった。
ある時、許允のもとを桓範が訪ねると、彼なら招き入れてくれるだろうと考え、夫の部屋に押しかけた。許允はすぐに出て行こうとし、引き止める阮氏に問答を仕掛けた。論破され妻の聡明さに気付いた許允は恥じ入り、仲睦まじく尊敬し合う間柄となった。(『夏侯玄伝』)

「魏略」に曰く。
以前、「漢書」を抜粋した「世要論」を著し、蔣済(しょうせい)なら公平に評価を下してくれるだろうと考え、読ませようとしたが、ろくに見もしなかったため恨んだ。後に「私の先祖は徳は少ないが名家だ。お前達とは違うぞ」と怒りをぶちまけると、蔣済は自分も桓範も剛毅で後に引かないとわかっていたため、返事をせず無言で睨みつけた。(『桓範伝』)

当時、大将軍の曹爽(そうそう)が実権を握り、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)らを重用した。王粛(おうしゅく)は蔣済・桓範と議論している時、彼らの話になると「こいつら(何晏・鄧颺)は弘恭・石顕(前漢の佞臣)の仲間です。これ以上の説明がいりますか」と激昂した。
曹爽は何晏らに「慎重にあらねばならない。王粛ら高官は諸君を前代の悪人と並べていたぞ」と戒めた。後に理由をつけて王粛は免職させられた。(『王朗伝』)

「魏略」に曰く。
桓範は沛国出身者の中で曹真(そうしん)の次に仕官したため、子の曹爽は郷里の大先輩として特に敬意を払ったが親しくはしなかった。
249年、専権を振るう曹爽を打倒するため司馬懿が挙兵し、政務に通暁する桓範に中領軍を任せようとした。桓範は応じようとしたが息子に諌められ、天子(曹芳)を擁する曹爽に味方しようと決めた。(『桓範伝』)

「世語」に曰く。
曹爽兄弟はたびたび城外へ出ていたため桓範は「連れ立って外出し、もし城門を閉鎖されたらどうするのか」と諌めた。曹爽は「そんな勇気のある者はいない」と強がったが、外出を取りやめた。それ以来、初めて外出したこの時に司馬懿は決起したのである。

桓範は詔勅と偽って城門を開けさせ、武器を集め門兵を配下にした。司馬懿は「桓範が画策しても必ずや曹爽は聞き入れない」と予測した。桓範は「今さら財産を捨てて命乞いしても遅い。しがない男でも一人の人質を確保していれば望みがあるが、あなたがたは天子を確保している。擁立して兵を集め、許昌へ逃れ戦いましょう」と勧めたが却下された。

「干宝晋書」に曰く。
桓範が曹爽についたことを聞くと司馬懿は蔣済へ「知恵袋が行った(がどうなる?)」と言った。蔣済は「桓範は知恵者だが、駑馬は目先の豆に引き寄せられるから、曹爽は用いられないでしょう」と答えた。(『曹真伝』)

「魏略」に曰く。
城門は既に閉鎖されていたが、守る司蕃(しばん)はかつて桓範が登用した役人だったため、怒鳴りつけて開門させた。司馬懿が反乱したからついてくるよう命じたが、徒歩の司蕃はついていけず脱落した。
桓範は曹爽に許昌へ逃れ、天子を奉じて兵を集めるよう進言したがためらわれた。弟の曹羲(そうぎ)へさらに「あなたの軍営は宮門に近く、役所は城外にあるから兵を集められる。許昌へは二晩もあれば着くし、武器も備蓄してある。私は大司農だから兵糧も確保できる」と具体的に対策を話したが、兄弟は黙ったまま決断できず、5時間が経った。
ついに曹爽は刀を投げ捨て「司馬懿は我々を屈服させたいだけだろう」と言い、曹芳に全員を罷免させ降伏を決めた。桓範は「この老いぼれはお前達に連座して一族皆殺しと決まったわ」と吐き捨てた。
桓範は曹芳に随行して都へ帰り、司馬懿に会うと無言で拝礼した。司馬懿は敬意を持ち「桓大夫よ、どうしてそんなことをするのか」と姓で呼んだ。
桓範は詔勅により大司農に復帰したが、司蕃が開門したことを自首するとともに桓範の言葉を伝えると、司馬懿は激怒し「反逆に導いた者は反逆した者と同罪だと法にある」として逮捕させた。連行される桓範は「手を緩めろ。私は義士だ」と言った。(『桓範伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
曹爽は「それでも私は富豪でいられるだろう」と言ったが桓範は「父の曹真は立派な方だったがお前達は子牛だ。連座して一族皆殺しにされるとは夢にも思わなかった」と嘆いた。(『曹真伝』)

曹爽・曹羲・何晏・鄧颺・桓範らは三族皆殺しにされた。(『斉王紀』)

「演義」では智囊(知恵袋)の異名で呼ばれる。曹爽の腹心とされ、史実と同様に進言を却下され慨嘆する。